日本語説教

  • 설교 자료 >
  • 日本語説教
自分の弱さから来る恐れ-ヨシュア1:1−9
고영수 2022-02-12 추천 3 댓글 0 조회 669

ヨシュア1:1−9/ 2022.2.13.日曜日午後礼拝

題目:自分の弱さから来る恐れ  説教者:高曜翰 伝道師

 

1.自信のない私

私は昔から何をするにも自信がありませんでした。それは自分に優れた能力がないからだと考えていました。アメリカでは、英語も韓国語も歌もできない私を伝道師として使ってくた牧師先生がいました。その優しさに報いるため、一生懸命、青年部の伝道師として奉仕しました。しかし、青年たちはなかなか言うことを聞いてくれませんでした。前任の伝道師と比べて、全てが劣っているからだと私は考えました。次第に伝道師として活動する気力が薄れていきました。そんな時、牧師先生は「高伝道師ができない人だということはみんな知っている」と言いました。そんな言葉で私は緊張はほぐれ、恐れはなくなりました。

 

2。モーセの後継者として選ばれたヨシュア

ヨシュアはエジプトを出る時40歳でした。元々はホセア(救い)という名前でしたが、モーセによってヨシュア(主は救い)に変わりました。ヨシュアはモーセのかばんもちで、モーセから霊的訓練を受けました。ヨシュアはアマレク人との戦いでは戦闘指揮をとり、カレブと共に約束の地に入ることが許された人物です。80歳の時、約束の地に入れないモーセの後継者になりました。

 

ちなみに、モーセはエジプトを出る時80歳でした。120歳の時、民が水を飲みたいと言ってつぶやいた言葉に腹を立てて、岩を2回打ちました。コリント書では、パウロはこの岩がキリストであると言っています。キリストは一度死に、その死によって人々の生ける水となりました。つまり岩を2回打つことは、キリストではなく自分自身の考えを優先し、自分自身を表すことを意味します。モーセはキリストを表すのに失敗したため、約束の地に入ることができませんでした。その結果、モーセの代わりにヨシュアが約束の地に入ることになります。

 

3。ヨシュアの恐れていたもの

モーセの後継者としてヨシュアが恐れていたものが3つあります。一つ目は、モーセと自分との大きな違いです。モーセはエジプトの宮殿で王子としての教育を受けた、いわゆる生まれつきのリーダーのような存在です。そして偉大な預言者でした。一方で、ヨシュアは平凡な人物でした。申命記34:10-12を見れば、「モーセのような預言者は起こらなかった」「モーセは神と顔を顔とを見合わせて知っている仲」「モーセの奇跡はエジプトとイスラエルの前で行われ、みんな知っている」とあります。リーダーとして選ばれたのが同じ80歳であっても、モーセとの間には圧倒的な差がありました。

 

二つ目は、数百万の民の反抗です。民数記を見ると、民はたびたびモーセに反抗していました。申命記では「私が死んだらますます反抗するようになるだろう」(申命記31:27)とレビ人に警告しています。指導者にとって反抗されることほどしんどいことはありません。私も教会で青年たちに「今すべきことですか?私がすべきことですか?」と反発を受けたことがありますが、10数名の反対でも大変ですが、これが数百万になると恐ろしいものになります。これまではモーセが受けていたがその反抗を、今度はヨシュアが直接受けることになります。

 

三つ目は、神様と直接応答することです。これまでは、モーセに主が語りかけていました。しかしこれからは自分が直接神様とお話しなければなりません。優れたモーセですら神に叱られたり、殺されそうになったり、約束の地に入れなくなりました。神様がモーセよりも能力の低く平凡な自分に満足するだろうか心配になりました。

 

4。神様の約束

そんなヨシュアに、神様は3つの約束をくださいました。一つ目は、「モーセに約束した地を与える」ということです(ヨシュア1:3)。ただし足の裏で踏まなければならない(ヨシュア1:3)と言っています。つまり口先の信仰ではなく、行動を伴う信仰が必要であるということを意味しますが、一方でヨシュア個人の能力は関係なく、モーセのような優れた能力は必要ない、ということを意味しています。必要なのは一歩を踏み出す勇気です。

 

二つ目は、「モーセと共にいたように一緒にいる」ということです(ヨシュア1:5)。敵が攻めても、民から非難されても見捨てない(ヨシュア1:5)とも言っています。ヨシュアが責められる時、1人が責められるわけではないということであり、神様が弁護してくださるということです。神様ほど頼もしい方は他にいません。

 

三つ目は、「勝利を得させる」ということです(ヨシュア1:8)。そして勝利を得るための条件は、モーセに命じた律法をことごとく守るということです(ヨシュア1:7)。つまり、新しいことを命じるわけではなく、神様が満足する方法はすでに伝えられており、慣れ親しんでいる言葉ということです。ヨシュアはこれまで教えられたことを忠実に守るだけでいいのです。

 

だから神様は、「強く、また雄々しくあれ」と同じ言葉を3回(ヨシュア1:6、ヨシュア1:7、ヨシュア1:9)言いました。同様の言葉を、モーセがヨシュアを新しい指導者として紹介する時も3回言っています(申命記31:6、申命記31:7、申命記31:8)。つまり、ヨシュアにとって必要なものは、優れた個人の能力による大胆さではなく、神様に信頼する行動力です。

 

5.信仰とは何か?

神様は特別なものを望まない一方で、特別な能力や協力者を与えてくれたり、周りの人々や環境を素敵なものに変えるわけでもありませんでした。約束の地にはまだ強力なカナン人が住んでいました。神様はただ約束をし、ともにいて、道を示してくれただけです。ある人々は神様の言葉にがっかりするかもしれません。信じるに値する素晴らしいものをまず見せるように神様に要求します。しかし、神様は私たちが何もない状態でも、まず神様の言葉を信じ、行動することを期待しています。それが信仰です。その信仰を持った時、神様は私たちの信仰生活を通して奇跡を見せてくださいます。ヨシュアたちイスラエルの人々は本来勝てないはずのカナン人たちに何度も勝利を収めました。いつの時代でも、神様が私たちに求めていることは、ヨシュアとイスラエルの民のように信じて大胆に歩むことです。その時、私たちは神様の奇跡を体験することができます。信仰とは、祈って待つだけではなく、御言葉通りに大胆に歩むことです。

 

5。結論

私たちは力もなく自信もない存在です。父のように、先生のようにちゃんとできるか不安があります。他人と比較すれば足りない物だらけで失望します。しかし私たちは比べる必要もないし失望する必要もありません。神様がすでに約束してくださり、神様がともにいて、道を示していて下さいます。私たちが自分の思いではなく、キリストの思いに従って生きる時、信じて歩み始める時、誰も私たちを打ち負かすことはできません。私たちは自分の力で生きる存在ではなく、神様の力で生きる存在だからです。だから怖がらずに大胆に、神様がともにるという確信を持って生きていきましょう。​ 

자유게시판 목록
구분 제목 작성자 등록일 추천 조회
이전글 題目:迫害をなぜ喜べるか? 고영수 2022.02.26 0 559
다음글 サウルの失敗ー1サムエル15:22-23 고영수 2022.01.30 2 644

大阪中央教会 ⧧537-0023 大板市 東成區 玉淨 3-1-33 (06) 6973-5540, 6920-1569 www.chuo.co.kr / sirokita@gmail.com

Copyright © 오사카중앙교회. All Rights reserved. MADE BY ONMAM.COM

  • Today0
  • Total58,930
  • rss