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迫害をなぜ喜べるか?(使徒行伝5:40-42)
고영수 2022-02-26 추천 0 댓글 0 조회 684

20220227 日曜午後礼拝

聖書:使徒行伝5:40-42

題目:迫害をなぜ喜べるか?

説教者:高曜翰 伝道師

 

​1.使徒たちの逮捕と処罰

イエスの死後、使徒たちは聖霊を授かり、イエスのように人々に福音を伝え、多くの病人や悪魔憑きを癒していました。使徒たちが神殿で奇跡を行なっていると、大祭司をはじめとするサドカイ派の人々が嫉妬し、彼らを投獄してしまいました。しかしその夜、天使が現れ、番兵がいて鍵のかかっている牢屋から使徒たちをこっそり連れ出しました。引き続き神殿で御言葉を伝えられるようにするためです。翌朝、サドカイ派は使徒たちを尋問するため、議会にパリサイ派を招集しました。そして使徒たちを召喚しようとしましたが、牢屋にはすでにおらず、神殿で福音を伝えているとの知らせが入りました。そのため、神殿で再び使徒たちを捕らえ、議会の中に立たせました。議会の中で使徒たちは、イエスが神でありメシアであり、自分たちと聖霊がその証人であることを説明しました。サドカイ派は怒りのあまり、民衆の支持を奪う使徒たちを殺そうとしました。しかし、パリサイ派のガマリエルが過激なサドカイ派を説得したため、使徒たちは鞭打ちの刑を受けて釈放されました。

 

2.解放後の使徒たち

神の言葉を伝え、人々を癒すことで、神にも人にも正しいことをした使徒たちですが、牢に入れられ、鞭打たれることになりました。このようにつらくて恥ずかしい経験をしたのにもかかわらず、使徒たちは悔しがったり、恨んだりしませんでした。むしろ鞭打たれた事を喜びとして、伝道を続けました。なぜこんなことができるのでしょうか?それは迫害を想定外のこととは思っておらず、むしろ栄光だと考えているからです(1ペテロ4:12-13)。イエスはすでに、使徒たちに「天においてあなたがたの報いは大きく、預言者たちもそのように迫害された」と教えています(マタイ5:11-12)。報いとは天において神様が義と認めてくださるということです。パウロは「キリストと苦難を共にしているなら私たちは神の相続人であり、キリストの共同相続人である」と述べています(ローマ8:17)。つまり、キリストのために受ける迫害は、神の国への証であり、聖霊が内在している結果であるといえます。ペテロ達のようにパウロもまた、たくさんの苦難を受けましたが、伝道をやめることはありませんでした(2コリント11:24−25)。それは、出産の喜びによって妊娠中の苦労が全て吹き飛ぶように、将来受ける報酬の喜びが迫害の苦労に勝るという確信を持っていたからではないでしょうか。

 

3.斎藤宗次郎

日本でも同じような人物がいました。斉藤宗次郎です。彼は岩手県花巻にあるお寺の息子として生まれました。内村鑑三の著書をきっかけに聖書を読むようになり、その町でクリスチャン第一号になった人物です。彼はその信仰のために、親から勘当され、人々から石を投げられるようになりました。しまいには、小学校の教師を辞めさせられ、長女は小学校でお腹を蹴られたことが原因で9歳で亡くなりました。そして彼の妻も3年後に病気で亡くなり、自分自身も新聞配達を朝3時から夜9時まで続けるという重労働の中、結核を患いました。しかし宗次郎は、人々に後ろ指さされる中でも、毎日聖書を読み祈る時間を設け、さらには、仕事の合間に、子供達や町の人々のために、雪かきをしたり、お見舞いに行ったりしていました。20年後、内村鑑三に誘われ東京に旅立つ日、誰も見送りに来ないだろうと思っていた駅には、町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、たくさんの生徒たち、僧侶や神主も見送りに来ていた。それは宗次郎に感謝を示すためでした。その中の一人には宮沢賢治がいました。彼は宗次郎をモデルにして「雨ニモマケズ」という詩を残しました。宗次郎の、行いを伴う信仰が人々の心を動かしたのです。しかし、宗次郎はなぜ迫害の中でも、人々への奉仕を続けることができたのでしょうか?それは、神様に褒めてもらえるからだけではなさそうです。なぜなら人間は自分のためだけには頑張れないからです。もし彼の行いが、自分を表すためであり、人々の関心を引きたいためだったなら、20年という長い年月は続かなかったでしょう。どうして彼は神様のために喜んで自分を犠牲にできたのでしょうか。

 

4.なぜ頑張れるか?

迫害の中で信仰を守り続け、伝道し続ける秘訣は何でしょうか?もちろん将来神様からもらえるご褒美も大きな要因でしょう。辛い仕事でも、たくさんの給料のために頑張ることができます。しかし、もっと大きな要因は、愛する人のためではないでしょうか。愛する子供や妻のために夫は、喜んで辛い仕事に耐えて、自分を犠牲にすることができるのです。それは人々に自分を大きく見せ、認められたいためではありません。もちろん慰めの言葉は大きな励みになりますが、それだけではなく、家族を愛しているからです。同じように私たちの信仰生活や伝道活動も、自分のためでは決して長続きしません。イエス様を愛しているからこそ、私たちは損をしてもイエス様の願いを叶えるために頑張ることができるのです。

 

5.私たちの中にある神のイメージ

2008年にイギリスコロンビア大学のエリザベス=ダンがアメリカで次のような調査を行いました。被験者に「自分が5ドルをもらう」か「自分以外に5ドルをあげる」かを選択させ、幸福度を調べるという実験です。どちらを選択するにしてもその5ドルは調査員から受け取るため、被験者が損をすることはありません。その結果、「自分が5ドルをもらう」を選択した人々に比べ、「自分以外に5ドルをあげる」を選択した人々の方が幸福度が長続きしたというものです。この実験は、金額設定を20ドルにした場合でも、場所を南アフリカにした場合でも大きく変わることはありませんでした。この結果は、私たちは自分が受け取ることよりも、他人に与えることでより幸せを感じることができるということです。私たち人間は罪のために、私たちの本来持つ神様のイメージが大きく壊れていますが、それでも私たちには愛を与え続けててくださる神様のイメージがまだ残っているからではないでしょうか。私たちのような罪人に恵みを注いで下さった神様ように、私たちも他人のために頑張れる性質が備わっているのです。夫婦がお互いに似てくるように、私たちも神様を愛することで、神様に似て与える人に変わってくるのです。

 

6.最後に

この世の者が私たちを憎むのは、私たちがこの世の者ではなく、神の者だからです。人の力で生きる者にとって、神の力で生きる者は憎いのです。しかし、私たちが憎まれるのは私たちが神の者である証拠です。私たちはこの世に憎まれた分だけ神様から褒美を受けるでしょう。しかし、それと同じくらい大事なことは、神様への愛が溢れている時、信仰生活も伝道活動も辞められなくなるという事実です。もし、伝道が負担に感じるのであれば、無理矢理御言葉を述べ伝えるのではなく、まず神様の愛を知ること、または思い出すことから始めて下さい。私たちは神様を正しく知れば知るほど、神様を好きになります。そうすることで、神様からの愛が私たちから溢れ、流れ出るようになります。そして、それはもう止められません。迫害にあっても、損することになっても、私たちは神様を述べ伝えることが何にも代えがたい喜びとなるからです。サドカイ派のようにやパリサイ派の人々のように、何かを手に入れる存在として生きるのではなく、使徒たちや宗次郎のように与える存在として生きることこそが、クリスチャンとしての本当の幸せなのです。私たちにはそれができるだけの性質が既に備わっていることを忘れないでください。​ 

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