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立ちはだかる壁の前で
고영수 2022-03-12 추천 1 댓글 0 조회 602

聖書:ヨシュア5:13-15、6:1-5/題目:立ちはだかる壁の前で

高曜翰 伝道師

 

1.問題にぶつかる時

多くの人は人生の中で、自分ではどうしようもないような大きな壁に何度かぶつかります。その度に「努力が足りなかった」「運がなかった」と考えますが、果たしてそうでしょうか?私たちには生まれ持っての才能や性格があります。確かに努力でカバーできることもありますが、努力ではどうしようもないことが確かに存在します。誰もが努力で、一流大学に入ったり、大金持ちになれるわけではないのです。私は学生時代に、つらい思いをしながらも、我慢しながら一生懸命勉強しましたが、ひたすら楽しみながら勉強し続ける同級生に衝撃を覚えたことがあります。勉強に対する姿勢が違いすぎて、努力で追いつけるものではないと思い知らされました。確かに努力は大切ですが、人間の力には限界があります。それでは、私たちは乗り越えられないような壁にぶつかった時、どうすればいいでしょうか?今日はヨシュアのイェリコ攻略から学びたいと思います。

 

2.イェリコの町

イェリコとは、人類最古の町と言われ、海抜250mと最も低い場所にあることで有名な町です。標高750mもあるエルサレムに降った雨が地下水となり、イェリコで湧き水として出てくるので、イェリコにあるオアシスを中心に町が栄えたようです。外敵の侵入を防ぐために巨大な外壁で町が囲まれていました。イェリコの人々は、葦の海を枯らしてエジプトから脱出し、エモリ人の王シホンとオグに勝利したイスラエル人がヨルダン川を越えてきたことにおびえる一方で、自分たちの持っている頑丈な城壁に信頼を寄せていました。そして、神様はイスラエル人にイェリコを征服するように命じましたが、遊牧民であったイスラエル人には巨大なの城壁を攻略できるような、立派な武器も戦力もありませんでした。

 

3.本当の司令官

イェリコとの戦いは、ヨシュアにとって、イスラエルの指導者としての最初の戦いです。ヨシュアは司令官としてイェリコの近くで戦略を考えていました。すると近くに「抜き身の剣を手に持ったひとりの人」が立っていることに気付きました。ヨシュアはその謎の人物が敵か味方かを尋ねました。するとその人物は「主の軍の将」と名乗りました。ヨシュアは慌てて伏して拝みました。するとその人物は、ヨシュアに履物を脱ぐように言いました。これはモーセに言われた台詞と同じであり、ヨシュアに礼拝を求めていることを意味します。通常、天使なら礼拝を受けることを拒絶するので、この謎の人物は天使ではなく神様自身と考えられ、また「主の軍の将」と名乗っていることから、父なる神様ではなく受肉前のイエスキリストと考えられます。そしてその肩書は、この戦いがイスラエル人対カナン人という人間同士の戦争ではなく、神様とカナン人との戦いであることを表しています。ヨシュアは最初、この人物が神様とは気付きませんでした。それはこの戦いがあくまでイスラエル人とカナン人との戦いであり、神様は遠くの天から眺めていると考えていたからと思われます。しかし実際は、この戦いの先頭はヨシュアではなく、神様であることを知るようになりました。「抜き身の剣」は神が旅行者などではなく、司令官として現れたことを意味しています。私たちもヨシュアと同じように、人生の問題にぶつかると、自分の力で何とか解決しようと一生懸命頭を使います。しかし、忘れてはいけないのは、私たちの戦いの司令官はいつも自分ではなく、私たちの人生の主人である神様であるという事実です。この世のものを征服しようとするなら、私たちはまず神様によって征服されなければなりません。私たちも困難にぶつかった時、ヨシュアのように主を礼拝し、主権を明け渡す必要があります。

 

4.司令官の命令

神様は「イェリコの町とその王と戦士たちをヨシュアの手に渡した」と宣言しました。そしてイェリコの攻略方法を説明します。それは、戦士たち、7つの角笛を持った祭司たち、契約の箱を持った祭司たち、戦士たち、そして民衆という順番で、イェリコの城壁の周りを1日1回(およそ30分)、7日目には7回回るというものです。その後、角笛を吹き大声を上げると城壁が崩れるというのです。音だけで壁が崩れるなど、常識ではありえない作戦です。また、途中で矢などの攻撃を受ける危険性があります。神様はこのように、人間には理解不能な命令を出される時があります。私たち人間は、目に見える常識の範囲内でしか物事を見ることができません。まず、信じるに値する十分な証拠を見てから信じ、行動に移ります。そして良い結果が得られた時に神様に感謝を捧げようとします。しかし、神様は私たちが理解することよりも先に、信じて受け入れること、そして礼拝することを要求します。神様は、イスラエル人が行動を起こすために必要な強力な武器や、特殊な力を持った戦士などを与えるようなことはしませんでした。子供が無条件に父親や母親の言葉を信じるように、私たちが御言葉を信じて行動に移すことを神様は期待しているのです。そしてそれこそが、神の民の持つべき姿勢なのです。

 

5.神様に降伏する信仰

イエス様は、ルカ18:9-14にある取税人とパリサイ人のたとえ話の中で、義と認められ救われたのは取税人であり、「誰でも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされる」(ルカ18:14)と結論付けています。私たちはついつい、パリサイ人のように自分を正しく義なる者であると勘違いします。自分を偉くて能力ある者のように考えますが、そうではありません。幼子に父親が必要なように、私たちは神様なしには永遠に生きていけない存在です。自分を足りない者であると認め、神様にすがることこそが、まず私たちに必要なことなのです。神様は、私たちに高い能力や大きな努力を要求しませんでした。自分のプライドや欲望を捨てて、神様に降伏することを求めているのです。神様に降伏することが信仰なのです。自分はできる、うまくいくと信じ込むことが信仰ではありません。自分はできない、だけど神様はできると認めることが信仰なのです。ルカによる福音書では、イエス様が誰かを癒した時に、「あなたの信仰があなたを救った」とよく言っています。これは、神様の超常的な力で一方的に私たちが救われるのではなく、神様に降伏する信仰が必要であることを意味しています。世の人々は自分の人生を豊かにするために、また死んだ後天国に行くために、神様という存在を求め信仰を持とうとします。しかしそれは、神様を利用しようとする思いがあるだけで、降伏する信仰ではありません。残念ながらそこには天国や神の祝福は存在しません。神様に服従することこそが、私たちの唯一救われる道であり、神様の望む信仰なのです。

 

6.結論

問題が起こった時、私たちはすぐに、どのように主導権を握り、勝利を収めようか悩みます。しかし、神様はまず、神様に降伏し、素直に従うことを求めています。イェリコの人々はイスラエルの攻撃に対して、神様に降伏することをせず、自分たちの作った頑丈な城壁にしがみつきました。一方、イスラエルはイェリコの壁に対して、神様に降伏し、神様の作戦にしがみつきました。目の前に、自分の力では到底壊すことのできない壁が現れたとき、それは私たちが神様に降伏し、神様に従う非常に良い機会だと言えます。努力が足りないからでも能力が足りないからでもありません。私たちが、神様に完全に服従するとき、私たちの前にある壁は崩れ去り、その問題は私たちに服従するということを忘れないでください。​ 

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