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結果よりも大事なこと(イザヤ6:9-10)
고영수 2022-11-12 추천 0 댓글 0 조회 102

聖書:イザヤ6:9-10

題目:結果よりも大事なこと

内容:結果が問題ではなく、神様は共に歩んでいるかどうかが問題である。

賛美:495、499、福音賛美275

 

1.お金よりも大切な物

 私が小学生のころ、こんな内容の物語をよくテレビで見ました。ある貧しい家庭がありました。給料も安く、家も小さく、おいしい食べ物も満足に食べることができませんでした。男は愛する妻と子供に申し訳なく思い、一生懸命良い職場を探し出して、朝早くから夜遅くまで忙しく働きました。その努力が実り、会社で高い地位にまで上り詰めました。男はこれで妻にも楽をさせられるし、子供にも良い教育を受けさせられると喜びました。しかし、その時にはすでに妻も子供も家から出て行ってしまい、いなくなっていました。男は忙しさのあまり妻と会話する時間も、子供と遊んであげる時間も取れず、知らない間に家庭が崩壊していたのです。男は今まで自分は何のために頑張ったのか、と途方にくれました。このような物語をいろんなドラマやアニメでたくさん見ました。このような物語では、お金よりも大切な物があることを教えています。それは「一緒にいる」ということです。男は妻と子供を幸せにするためにお金をたくさん稼ごうとしましたが、妻と子供にとっての幸せは一緒にいることだったのです。愛する者のために頑張ることは良いことですが、その目的や結果が相手の望むものでなければ、意味がありません。

 

2.イザヤの召命

 イザヤ6章はイザヤの召命または再召命について語られている場面です。イザヤは頼りにしていたウジヤ王が亡くなったその年に、王座に座る主の幻を見ました。セラフィムという天使たちがその王座の周りを飛び交い、「聖なる、聖なる、聖なるかな」と叫んでいました。イザヤはそれを見た時、愕然とし、「ああ、私は滅んでしまう」と嘆きました。今までエルサレムの人々を「悪しき者」と非難していましたが、神の清さを目の当たりにすることで、イザヤ自身もエルサレムの民と同じように死んで当然の罪深い存在であることに気づいたのです。するとセラフィムのひとりが燃える炭火を持ってきてイザヤの口に当てました。そして「あなたの罪は許された」と言ったのです。これはイザヤの罪が神の一方的な恵みによって許されたことを意味しています。イザヤの行いや能力は関係がありません。神様は私たちが自分自身の罪を認める時、私たちの罪を取り除かれます。

 神様によって罪を取り除かれ、神様との正しい関係を回復したイザヤは、「誰をわたしは遣わそう」との神様の問いに「私を遣わして下さい」と答えました。神様の働きによって清められ、神様の呼びかけに答えた者だけが、神様の仕事をする祝福にあずかることができます。能力は地位は関係ありません。ちなみに、神様はアッシリアといった悔い改めない罪人をも用いますが、そこに祝福はありません。そして神様の仕事をするということは、神様と共に歩むということです。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいた一切の事を守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:19-20)と書いてある通りです。牧師や宣教師といった召命者は、イザヤのように神様によって清められ、救われた感動をもって奉仕を始めます。

 

3.召命者のつまづき

 しかし、実際に奉仕を始めると、多くの召命者たちがつまづく出来事が起こります。それは目に見える結果が出ないということです。一生懸命努力をするのですが、何も実りが得られないのです。多くの人々が、救われた感動の中、神様のために何かしたいと思い、「大きな教会を建てよう」「たくさんの信徒を集めよう」といった目標を立て、素晴らしい結果を出すために頑張ります。しかし結果が出ないのです。努力が足りないと考え、さらに努力をしますが結果が出ません。何が問題なのでしょうか?その答えを知るヒントがイザヤ書6章の後半にあります。神様は呼びかけに答えたイザヤに、『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と語るよう命令しました。そして「立ち返って癒されることのないように」とも言っています。つまり、イザヤは神様の言葉をエルサレムの人々に語らなければいけませんが、神様が彼らの心をかたくなにするので、悔い改めることはないというのです。なんということでしょうか。神様の命じる名誉ある仕事ですが、目に見える実りが得られないというのです。私たちは結果が出るように仕事をします。目に見える結果がなければ、無駄に終わったように感じ、失望します。行動には結果が伴うべきだと考えます。しかし神様は、結果が出ないが行動しなさいと言っています。一見意味のないような命令に対してイザヤは「なぜですか?」とは言わず、「いつまでですか?」と聞きました。ここにイザヤの従順さが現れています。神様の仕事には、結果による自己満足感が必要なのではなく、従順に行動する忠実さが必要なのです。

 イザヤの質問に対し、神様は「人々が遠くに移され、荒れ果てたところが国の中に多くなる時まで」と答えています。イザヤの語りは目に見える成果を生み出しません。しかしその仕事には神様の定めた期間があります。つまり、人の目には実りのない無価値な仕事に見えても、神様の計画の中ではしっかりと意味ある行いなのです。私たちは人間の狭い視野で神様の計画を判断してはいけません。例えば、人は10人が礼拝する教会よりも1000人が礼拝する教会のほうが価値があると考え、10人に仕える牧師よりも1000人に仕える牧師の方が価値があると考えます。しかし、神様の目にはそうではありません。イザヤの無意味とも思える宣教活動にも神様にとって意味があるように、10人の教会の牧師も、1000人の教会の牧師も神様にとっては同じ価値ある存在であり、能力のない牧師も、能力ある牧師も神様にとっては同じ価値ある存在なのです。問題なのは、持っている物や成し遂げたことの大きさではなく、神の言葉に従う従順さです。イザヤは従順に仕えることを選びました。イザヤが従ったのは、例え人の目には無意味に見えても、神の計画の大事な一部だと理解したからではないでしょうか。神様が求めているのは、結果を出す人間ではなく、大きな立派な夢を描く人間でもなく、神様の計画を理解できなくとも、神と共に歩み続けられる忠実な人間なのです

 

4.やもめの献金をほめたイエス

 ルカによる福音書21章を見ると、イエスはたくさんの献金を捧げた金持ちたちよりも、レプタ銅貨2枚を捧げたやもめを「だれよりもたくさん捧げた」と言って賞賛しています。そしてその理由を「持っている生活費全部を捧げたから」と言っています。これは決して、イエスが計算してやもめのレプタ銅貨2枚の全生活費における割合の高さを見て賞賛したのではありません。イエスが賞賛しているのは、神様に完全に頼り切るというそのやもめの心です。目に見えるものよりも、神様と共に歩む人生を選んだその行為に対してです。このお話の前に当たるルカによる福音書20章45節を見ると、イエスは律法学者たちを「長い衣を着て歩き回ったり、広場で挨拶されたり、上座に座ることを好み」、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と批判しています。どういうことかというと、律法学者たちは人々に尊敬されるという目に見える結果を求め、弱者を憐れむといった神様の望みを無視しているということです。彼らは神様の望むことよりも、神様と共に歩むことよりも、自分勝手な目的を叶えるために行動しています。だからイエスに非難されているのです。私たち人間は何か目に見える結果にしがみつきそうになりますが、神様は私たちが自分勝手な願いを捨てて、神様と共に歩むことを求めています。つまりクリスチャンにとって重要なのは目に見える結果の大きさではなく、このやもめのようにつらい状況でも神様と共に歩むことができているかどうかなのです。律法学者たちは神様の望みを無視し、自分たちの望みしか考えていませんでしたが、このやもめは神様の望みをよく知っていたのです。

 

5.私の求めるもの、神様の求めるもの

 アメリカで伝道師として奉仕していた時、私は青年たちの信仰が深まるように、聖書勉強を一生懸命教えようとしました。そして日曜日の午後に聖書勉強をしようと提案しました。すると予想外にも、強い反発があり、そんなことをするなら友達を連れて教会から出て行くと言われました。奉仕を通して信仰が深まるように、教会の片付けを一緒にやろうとすると、ある青年に、それは私がしないといけないのですか?と反発されました。また、私は学校の宿題をしたり教会の準備をするために長時間教会にいることが多かったのですが、教会でずっと座っている私を見て、私が非友好的で青年たちを無視しているという話を聞きました。私はショックを受けました。青年たちが聖書勉強を通して神様を深く知り、奉仕を通して祝福を受けることができるように、青年たちのために頑張ったのに、自分の望んだ結果とは真逆の結果が出たのです。

 そんな私に牧師先生は「教えようとするな、一緒にいてあげなさい」と言いました。私は頑張って教えることをやめ、青年たちが遊びに行くところにずっとついて行きました。疲れている時も無理矢理ついて行きました。そしてわたしは、青年たちを変えようとすることをやめ、黙々と奉仕することにしました。2年近くたった時、牧師先生を通して、青年たちが「新しい伝道師が高伝道師で良かった」と言っていることを聞きました。ずっと一緒にいようとする私に心を少しづつ開くようになり、朝から夜遅くまで教会のために奉仕している姿を見て、信頼できると感じたそうです。青年たちを変えようと頑張って教えようといる時は、結果が出ませんでした。しかし、牧師先生を通して伝えられた神様の言葉に従い、青年たちを変えようとせずそのまま受け入れると、青年たちに変化が起こりました。私が日本に戻る一ヵ月前の早天祈祷会には4人の青年が出席するようになったのです。私は青年たちを教育することが神様のためだと思っていましたが、神様は私に青年たちと共にいることを望んでいたのです。

 

6.意味のない奉仕はない

 イザヤはエルサレムの裁きの預言をしました。自分の国の民を「ソドムの民」と言い、イザヤ10:5-6では「アッスリヤはわが怒りの杖、わが憤りの鞭だ。私は彼を遣わして不信の国を攻め、彼に命じてわが怒りの民を攻め、かすめ奪わせ、彼らを巷の泥のようにふみにじらせる」と言っています。つまり、敵国アッシリアを神様がご自分の使者として遣わしたと言っているのです。例えるなら、第二次世界大戦時に、韓国人のお偉いさんが、韓国の民衆に向かって、神様は罪深い韓国を攻めるために日本のご自分の使者として用いられた、と言っているのと同じです。これは良い結果を得られるかどうか以前に命がけの行為です。しかしイザヤは神様に従い続けました。なぜでしょうか。今は目に見える良い結果は得られなくても、神様が新しいエルサレムを立て直すという素晴らしい結果を与えられると信じていたからです。「その日、主の枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇り、また光栄となる」(イザヤ4:2)と書いてある通りです。だから結果が出ないからと言って諦めないでください。今は結果が出なくても、神様と共に歩み続ければ、結果は必ず神様が用意してくださいます。

 

7.私たちがすべきこと

 目標を持って生きることはとても素晴らしいことです。しかし、その目標が神様から来たものではなく、自分勝手な自分の考えから来たの場合、その願いは叶えられなく、叶えられるべきではありません。神様の御心にないことだからです。これは何も牧師や宣教師だけが気を付ける問題ではなく、全ての信徒に当てはまる問題です。子供が一流大学に入る様に、一流企業に入る様に、素敵な相手と結婚できるように祈りますが、その願いはどこから来たものですか?その願いに神様の思いがなく、単に子供の幸せのためだとしたら、その願いは間違っています。私たちは神の国の民なのですから、神様の御心が叶うように祈るべきです。本当に子供の幸せを願うのなら、神様に敵対するような願いをやめて、子供が神様と共に人生を歩めるように祈ってください。私たちが実を結ぶのは私たちの努力や知恵によるのではなく、神様の力によります。だから私たちは成果を出すことよりも、神様と共に歩むことに集中しなければなりません。私たちが神様と共に歩み続ける時、神様は私たちの想像をはるかに超えたものを見せて下さいます。イザヤは実りのない伝道活動に従順に従いました。その結果、7章では「見よ。おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ7:14)という未来永劫語り継がれる言葉を授かります。実りある結果が重要なのではなく、神様と共に歩むことが大切なのです。実りある結果は神様が用意してくださいます。私たちもイザヤのように、結果を求める人生ではなく、神様と共に歩む人生を選択し、想像を超える神の素晴らしい御業を仰ぎ見ましょう。​ 

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