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私たちは切り株です(イザヤ11:1-5)
고요한 2024-10-27 추천 0 댓글 0 조회 72
20241027日曜午後礼拝説教

聖書:イザヤ111-5

題目:私たちは切り株です

内容:主以外に頼ることは高慢であり、その高ぶりを主は切り倒されます。しかし、主に頼ることしかできないほど低くなった私たちを主は用いられます。

説教者:高曜翰 副牧師​

 

1.人生の意味

 ある 30歳女性が三浦綾子さんにこんなお便りを出したそうです。『毎朝起きて食事を作ると、夫を仕事に送り出し、子供を幼稚園に送り、その後、掃除、洗濯、買い物、そして夕飯の準備で一日が終わります。これからも毎日ずっと同じ繰り返しで一体何になるのか?自分の生きている意味が分かりません。』三浦綾子さんはこのように答えたそうです。『自分は結核と脊椎カリエスで13年間の寝たきり生活をしていました。食事、下の世話、洗濯も人にしてもらうしかありません。医療費はかかるし、家族に心配はかける、治る見込みはない。自分が情けなくて、死んだほうがマシだ、と考えました。しかし、クリスチャンになって以降、寝たきりでも誰かのために祈ることができると知りました。ベッドであおむけになったままひとりひとり友達を思いながら葉書を書きました。すると、死にたい毎日が全く別なものに変えられていきました。そして自分の病室にはいろいろな人が訪ねてくれるようになりました。』私たちはもともと神に頼らなければ生きていけない存在です。人は一人では自分勝手に生きることはできても、生きる意味を知ることはできません。イエスキリストを通して神の愛につなげられた時、他の誰かとも繋がり、その存在が意味ある大切なものになるのです。そのためには心の高慢が打ち砕かれ、神様に頼る存在になる必要があります。

 

2.エッサイの切り株

 1節を見ると、エッサイの切り株から若枝が出て実を結ぶとあります。なぜ他の有名な人ではなく、無名なエッサイなのでしょうか?エッサイはダビデの父親ですが、身分の低い羊飼いです。そして、なぜ木ではなく切り株なのでしょうか?切り株は切り倒されて残った部分であり、終わりを意味します。しかし、そこから若枝が出ると言っています。若枝は新しい生命の象徴であり、始まりを意味します。つまり、だれも見向きもしない切り倒された存在から新しい命が出てきて実を結ぶことを伝えています。

 2節を見ると、その上に霊が止まるとあります。そして7つの性質を持っています。それは「主の物」「知恵」「悟り」「はかりごと」「能力」「主を知る知識」「主を恐れること」です。霊というのは感情的なものや感じるだけのものではないということですね。とても知性的であり人格的であることがわかります。

 3節を見ると、主を恐れることを喜び、目で見たことや耳で聞いたことでは裁かないとあります。主を恐れることを喜ぶとは何でしょうか?正確には主の恐れの中で喜びがあるということです。また、神を恐れるとは、自分の目や耳による判断に頼るのではなく、神の判断に頼るということです。つまり、神の判断を頼ることにこそ本当の喜びがあります。自分勝手な判断で手に入るのは、思い通りになったという一時的な喜びにしかなりません。

 4節を見ると、正義で貧しい者を裁き、公正で謙遜な者を判断し、口の鞭をもって国を打ち、唇の息をもって悪しき者を殺すとあります。神はいつも正義と公平をもって裁き、えこひいきをしない方であるということがわかります。そして裁きはその口から出る言葉によって行われます。ここでも悪魔とイエスとの戦いは同じ力を持った者同士のものではないということがわかります。すでに勝敗は決まっており、神の裁きはだれも止めることはできません。

 5節を見ると、正義はその腰の帯となり、忠実さはその体の帯となるとあります。帯とはベルトであり、服を着るときに、最後に締める重要なものになります。つまり、神の義も神への忠実さも体を引き締める役割を果たすということでです。

 

3.へりくだる者を主は選ばれる

 今日の聖句から分かることは何でしょうか?第一に、主はへりくだる者を選ばれます。強大なアッシリアは大きな木々のように栄えましたが、主によって切り倒されました。ユダもその高慢のために、のちにはアッシリアのように切り倒されます。しかし、エッサイの株から若枝であるイエスキリストが現れます。結果的にへりくだったユダを主は用いられるのです。

 イエスはどうだったでしょうか?イエスには天使を呼び寄せる権威や、奇跡を起こす力がありました。しかし、その力で自分を誇ったり、自分を高めるために用いたりはしませんでした。イエスは最後まで自分を低くし、十字架の死に至るまで神様の計画に従順でした。その結果、イエスは天にまで高く上げられました。誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(マタイ23:12)という言葉通りに生きられました。

 私たちは自分を高めることばかり考えていないでしょうか?神の国では、神様を高め、人を立てることで、自分を低くする者が神様に喜ばれます。

 

4.神の約束は何よりも強力である

 主の約束はユダの不義や不忠実で、またはアッシリアの強大な軍事力によって破られたのでしょうか?そうではありません。ヒゼキヤ王の時代にアッシリアを撃退する預言がありましたが(イザヤ10:20-23)、歴史はまさにその通りになりました。アッシリア側の戦歴を記録する碑文テイラープリズムにも『アッシリアの王がヒゼキヤをエルサレムに籠の鳥のように閉じ込めた』と書いてあります。逆に言えば、他の46の強力な城塞都市を滅ぼしたアッシリアがエルサレムを滅ぼすことができなかったことを証明しています。

 同様に、イエスによる全人類を救う神の計画も成し遂げられました。今日読んだ聖句もまさにイエスキリストを預言する聖句ですが、その通りになりました。イエスの十字架による救いを、パリサイ人や律法学者も、悪魔でさえも妨害することはできませんでした。パウロが、神の約束はことごとく彼において「しかり」となったからである(2コリント1:20)といった通りです。

 私たちは自分の計画に固執していないでしょうか?勝手な約束や誓いを立てていないでしょうか?この世に神の言葉以上に強く、神の約束以上に固いものはありません。人の力はもちろん天使の力でも崩すことはできません。それでは私たちは自分の計画や約束ではなく、誰の計画や約束に入るべきでしょうか?

 

5.私たちは主に頼って生きよう

 同じ滅亡を迎えるアッシリアとユダとの間にある違いは何でしょうか?それは主の約束に頼っているかどうかです。アッシリアは鉄の戦車を武器に、その軍事力でオリエントを初めて統一しました。バビロンとエジプトを占領し、大帝国を築きました。しかし、その支配は長く続かず、バビロンとメディアの連合軍によって敗れました。力で勝利を得る者はそれ以上の力で打ち負かされます。アッシリアもユダも滅亡したのは力がないからではありません。神様に頼らなかったことが原因です。アッシリアもヨナを通して救いを経験し、ユダもイザヤを通して救いを経験しました。しかし、滅亡したのは、主が高慢な者を平等に撃たれる公平な方だからです。一方で、ユダが完全に滅びなかったのは、その約束の中に入っていたからです。

 イエスは自分の力に頼らず、いつも神様の力に頼っていました。イエスは、自分が話している言葉は自分から話しているのではなく、父が自分の中にいて働いているからだ(ヨハネ14:10)と告白しています。私たちが救いを得たのは、イエスが人間的な考えではなく、神様の力に頼って十字架の道を選択したおかげなのです。

 私たちは自分の力に頼って生きていませんか?人間はその罪のために不完全な存在であり、その計画もその能力も不完全です。自分の力に頼って生きることは運任せの人生を送ることと大差ありません。私たちは完全なる神様の計画と能力を信じて頼るべきなのです。

 

6.まとめ

 あなたの人生はうまくいっていますか?それともうまくいかず失望していますか?どちらにせよあなたが自分の力で生きているというのなら、それは高慢です。公平な主によっていつか必ず切り倒されます。しかし、失望に終わることはありません。へりくだり、切り株になった者を主は選ばれます。そして主の約束は何よりも強力です。私たちが自分に頼ることをやめて、主に頼ることを始めるとき、私たちは人の知識では想像もつかないような神の栄光を見ることになります。大きな木ではなく、主に頼る切り株の人生を送りましょう。
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