20241103 日曜午後礼拝説教
聖書:イザヤ12:1−3
題目:喜びながら水を汲もう
内容:私たちは一時的な救いの水を喜ぶのではなく、永遠の救いの水であるイエスキリストを喜びましょう。
説経者:高曜翰 福牧師
1.マイムマイム
日本人にとって馴染みのある「マイムマイム」という曲は、ポーランド生まれのユダヤ人作曲家イマヌエル・プガチョフ・アミラン(1909−1993)によって作曲されました。劇で使用するために作られた曲ですが、戦後、イスラエル再建に集まった人々が、砂漠から水を掘り当てて喜ぶ様子を表現するために用いられました。その歌詞はイザヤ12:3からの引用です。元々は終わりの時代に実現する、神の国の祝福を預言したものになります。原文の解説を下記に記しておきます(注:ヘブライ語の文章は右側から始まります)。
וּשְׁאַבְתֶּם־מַיִם בְּשָׂשׂוֹן מִמַּעַיְנֵי הַיְשׁוּעָה׃
ウ/シャブテム-マイム//ベッサソン//ミィマイエ//ハ/イェシュア
それゆえ/あなた方は汲む-水を//喜びながら//井戸から// 救い/の
2.イスラエルの回復
1節では、神の国が地上に来る日、神の怒りが止んで私は慰められ、感謝するだろうと言っています。そして2節では、神は私の力であり、歌であり、救いであるため、信頼して恐ることがないと言っています。その結果3節では、喜びながら救いの井戸から水を汲むと言っています。人はもともと、何かを頼らないと生きていけない存在です。何かを頼らずに生きていける存在は神以外にありません。そして、人は神だけを頼って満足できるように作られていました。だから他のものに頼っても、決して真の満足を得ることはできないのです。イスラエルの問題点は、神以外を頼り、神以外で満足を得ようとしたところにあります。しかし、神の怒りを通して、イスラエルが神だけを頼るようになる時、真の平安と満足を得ることができるのです。水を汲むのは大変労力のいる仕事です。しかし、命を得るための水を喜びながら汲むことができるのです。
3.水汲みの儀式
ユダヤ3大祭の1つに仮庵の祭りというものがあります。7日間の間、家の外に仮の住まいを作り、住まなければならなりません。苦しかった荒野での生活を忘れないためです。今もユダヤ人達はこの祭りを毎年行っています。その祭りの中で「水汲みの儀式」というものがあります。神殿があった時代では、シロアムの池の水を汲み、500m先の神殿まで、イザヤ12章3節を歌いながら運んだそうです。その度に、祭壇の周りを1周し、水を注ぎますが、最終日の7日目には祭壇の周りを7周回るそうです。この儀式は、深刻な水問題が付きまとう荒野生活で、命を繋ぐための水をくださった主を忘れないためです。
4.イエスの言う救いの水
ヨハネによる福音書7章を見ると、仮庵の祭りにおけるイエスの注目すべき発言を見ることができます。当時、仮庵の祭りのため、多くのユダヤ人がエルサレムに集まっており、神殿ではイエスを探し、イエスについて密かに議論をしていました。以前イエスが「私の肉を食べ、血を飲みなさい」(ヨハネ6:53)と律法に反するような発言をし、人々に衝撃を与えていたためです。そんな中、イエスが祭りの後半に神殿に現れ、人々に教え始めました。そして、最終日の安息日、イエスは「誰でも渇く者は私の所に来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と言いました。それは、真の命は物質的な水にあるのではなく、霊的な水であるイエスキリストにあることを伝えるためでした。イエスがメシアであると認める人々と認めない人々が分かれて議論が白熱しました。騒ぎが大きくなる中で、祭司長やパリサイ人達はイエスをとらえようとしました。そんな中でイエスを守るために立ち上がったのはニコデモでした。
5.生まれ変わったニコデモ
ニコデモは、かつて夜に隠れてイエスに会いに来たパリサイ人です。自分よりも遥かに若く、パリサイ人達から嫌われているイエスを、堂々と尋ねることができませんでした。人の視線を恐れていたからです。しかし、この仮庵の祭りでは、人々の視線を恐れず、堂々とパリサイ人達の前に現れ、イエスを守ったのです。また、イエスが十字架にかかって死んだ後も、没薬とアロエとを混ぜたものを30kgほど用意し、アリマタヤのヨセフと共に、イエスを埋葬しました。12弟子達はイエスの仲間だと疑われるのを恐れて、逃げていたのにも関わらずです。なぜニコデモはこのように、人の視線を恐れず大胆に行動できるようになったのでしょうか?それは、イエスキリストを通して真の救いの水を飲んだからです。
6.イエスの井戸から水を汲もう
今日のお話から何がわかるでしょうか?第一に、私たちは、真の救いの水はイエスキリストから出るということです。確かに物質的な水は肉体的に生命を与えるとても大切な存在です。マイムマイムの歌も、仮庵の祭りの水汲みの儀式もそれをよく表しています。しかしもっと大切なことは、霊的な水を飲むことです。物質的な水は飲んでも渇き、せいぜい100年の命を与えるだけです。一方で、イエスキリストから出る水は永遠の命を与えます。イザヤ12:3の原文を見ると、「救いの井戸」とありますが、「救い」を意味する「イェシュア」は「イエス」を意味しています。真の「救いの井戸」は「イエスの井戸」にあるのです。「イエスの井戸」から出る水を飲むと、肉体的には渇いて死んだとしても、永遠の命を得ることができるのです。
第二に、イエスの与える水は私たちを完全に満たすので、恐れがなくなると言うことです。物質的な水は一時的に生命を与えますが、いつも、水を失う不安から逃げられません。しかしイエスの与える霊的な水は永遠の生命を与えるので、失う不安をなくすことができます。数学者パスカルは「人の心は神によってしか満たされない空洞がある。神によって空洞が満たされると人は生きる」と言いました。私たちの心を満たし平安を与えるのはイエスキリストしかありません。
そのため、私たちは喜びながら真の救いの水であるイエスキリストを求めましょう。あなたは物質的なもので自分を満たそうとしていませんか?お金や地位、人からの称賛を求めることは、物質的な水を求めることと同じです。一時的には満足しますが、決して長続きせず、完全に満たされることはありません。限りあるこの世のものでは決して満たされず、不安と恐れがつきまといます。ニコデモは知恵も地位もある物質的には満たされた人でした。しかし、その人生は満たされていませんでした。だからイエスに会いに来たのです。その人生には不安と恐れがありました。だから夜に人目を避けて会いに来たのです。しかし、イエスの与える水によって満たされた後は、大胆に人々の前に立ち、自分のすべきことをするようになりました。
皆さんの人生に平安や満足はありますか?人の視線を恐れ、不安や不満が溜まっているのは、決して満たされないもので、満たそうとする間違った態度にあります。人の心を真に満たすことのできるのは、お金や地位ではなく、イエスキリストだけです。同じ水を汲む労力を使うなら、他の物ではなく、救いの命の水であるイエスキリストに使うようにしてください。今日も、自分の心がイエスキリストで満たされるようにお祈りましょう。
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