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我が民エジプト(イザヤ19:25)
고요한 2024-11-17 추천 0 댓글 0 조회 54

20241117 日曜午後礼拝

聖書:イザヤ19:25

題目:我が民エジプト

内容:人を義とするのは、私たち自身ではなく神様です。憎しみを持つ時、自分を正当化するのではなく、相手の義認のために祈りましょう。それが、全ての人が救われることを望む神様が、私たちに求めていることです。

説教者:高曜翰 副牧師

1。正当化の罠

 「正当化」という言葉を聞くと、どんなイメージがありますか?「正当」という言葉だけだと正しさや真面目さなどの良いイメージがあります。しかし、その後に「化」という言葉をつけるだけで、全く逆の悪いイメージになります。「正当」だと主張し「正当化」する人間の心の中にある高慢が見え隠れするからではないでしょうか。

 この「正当化」というのは、善悪を知る木の実を食べたという人類の最初の罪と深い関係があります。単に神様が食べてはいけないと言った果実を食べてしまった、ということではありません。神様の基準を無視して、自分で新たな基準を作り上げ、それに従い、自分の行動を「正当化」してしまったことにあります。さらに、アダムは自分の罪を「(神様の作った)妻のせいだ」と言い、イブは「(神様の作った)ヘビのせいだ」と責任転嫁しました。これは自己正当化の罪です。善悪の判断基準は人ではなく神様にあり、「正当化」は神様だけができることだからです。最終的に、アダムとイブは、エデンの園を追放されてしまいました。もし、これらの自己正当化に対して、悔い改めをしていたのなら、物語の結末は変わっていたのかもしれません。

 残念ながらこの「正当化」は現代の教会においてもよく行われています。それは聖書の言葉を用いて相手を非難することです。一見、神様の基準に従っているように見えますが、神様の言葉を自分の都合のいいように悪用して、自分を「正当化」し高めるているだけに過ぎません。本当の意味で神様の基準に従うのなら、自分を低くして、愛を持って接するはずです。神様の言葉は、人が自分や誰かを「正当化」するためのものではなく、神様が人を「正当化」するためあります。神学的にはこの「正当化」を「義認」と言います。

 それではみなさん、今日の御言葉である「我が民エジプト、我が作品アッシリア、我が相続地イスラエル」を聞いてどう思いますか?イスラエルの立場になって考えてみた時に、エジプトとアッシリアに対する神様の言葉を素直に受け入れることができるでしょうか?

2。エジプトの歴史

 エジプト歴史を簡単に振り返ってみると、モーセ出生時のファラオと考えられるトトメス1世、世間的に有名なツタンカーメンのいる第18王朝(前1570-前1293)以降、エジプト人の国家は徐々に衰退していきました。第22−24王朝(前945-前715)ではリビア人が王になり、第25王朝(前751-前656)ではエチオピア人がエジプト全土を統一しました。アッシリアのエジプト侵攻後、エチオピア人は撤退し、前663年にはアッシリア人によるエジプトの支配が始まりました。前612年のアッシリア崩壊後に第26王朝が独立しましたが、前525年以降、ペルシャ、ギリシャ、ローマと立て続けに外国勢力によって支配されることになります。

 イスラエル人から見たエジプト人は自分たちを苦しめた敵であり、裁きを受けて当然の存在です。エジプト人への裁きの預言はイスラエル人を喜ばせたことでしょう。しかし、注意しなければなりません。神様はエジプトを完全に滅ぼそうとしているのではありません。神様はエジプトを「我が民」と呼びました。通常、「我が民」とはイスラエルに用いる単語です。その言葉をエジプト人に使ったということは、神様はエジプト人を「我が民イスラエル」を苦しめた存在から、「イスラエルと同じ我が民」に変えることを望んでいるということです。エジプト人が頼っている偶像を全て捨て、自己正当化をやめる時、彼らは神様の国の民になるのです。

 エジプトにはすでにその兆候が出ています。イエスの死後、西暦60年にマルコがエジプトに福音を述べ伝えました。エジプトはローマの支配下でキリスト教国家になりました。それは500年以上続きました。残念ながら、641年にウマイヤ朝によってイスラム化し、イスラム世界を代表する国家として1400年続くことになります。現在も、イスラム教国家としてアラブ人の支配が続いています。その間、アラブ人やギリシャ人、トルコ人と混血が進みましたが、10−20%のコプト教徒が1400年間、エジプトの地で信仰を守り続けています。彼らは「我が民エジプト」という神様の言葉を信じ、神様がエジプト人を用いられる時を待っているのです。

3。自己正当化を止めるために

 自己正当化する人の特徴は、世界の中心が自分だという考えが心のどこかにあります。視野が狭くなり、自分の見える部分だけが世界の全てになります。しかし、世界は目に見えない部分にも広がっており、世界の中心は神様ただ一人です。クリスチャンとして、自己正当化を避けるためにはどうすればいいでしょうか?今日お話しする3つのポイントが視野を広げる助けになれば幸いです。

 1つ目は、「神様は悪人も救いたい」ということです。神様は自分の愛するイスラエルの民を苦しめたエジプトに罰を与えましたが、滅ぼしませんでした。それは「私は悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか」(エゼキエル18:23)と書いてある通りです。残虐なアッシリア人に対しても同様です。南ユダ王国の兄弟である北イスラエル王国を滅ぼした憎き仇です。しかし神様は預言者ヨナを首都ニネベに送って悔い改めを促しました。それの愛はイエスを通して最も強く私たちに現れました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ‬ ‭3‬:‭16‬)と書いてある通りです。実際に救われるのは残りの者であることを神様は知っています。しかし善人だけでなく悪人をも救いたいのが神様の心です。「私の憎い人」でも神様にとっては「救うべき子供」なのです。その心が「我が民エジプト」という言葉に現れています。私たちが本当に神の子であるのなら、その父の思いを知っておくべきではないでしょうか。

 2つ目は「自己正当化が義認を邪魔する」ということです。ゴルゴダの丘でイエスと共に十字架につけられた強盗の1人は自己正当化をしました。彼はイエスに「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」(ルカ23:39)と悪口を言い続けました。罪を犯しながらも、自分の受けている罰が不当であり、自分は苦しみから解放されて当然だという思いがあるのです。だから平気でこのようにキリストに命令できるのです。一方で、もう1人の強盗は最初はイエスを罵っていましたが、自己正当化をやめました。「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない。イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカ23‬:‭40‬-‭42‬)と言いました。今の苦しみが自分の罪のせいであり、当然であると認めたのです。そしてイエスに頼りました。その結果イエスによって義認され、天国に行ったのです。2人の違いは何でしょうか?最初の強盗は自己正当化して、その瞬間は満足しましたが、永遠の救いは得られませんでした。一方でもう1人の強盗は、自己正当化をやめたことによって義認され、永遠の救いを得ることができました。自己正当化は義認を妨げる危険なものなのです。

 3つ目は「悪人の義認のために祈ろう」です。イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである」(マタイ5:44−45)と言いました。神様は、全ての人々を愛し、義認を与えたいと考えています。それが神様の愛であり、そのおかげで私たちのような罪人にも義認が与えられたことを忘れてはいけません。事実、イエスは「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と祈りました。死に直面している時でも、自分を正当化せずに、自分で言った言葉通りに、悪人の義認のために祈りました。その結果、イエスは自分が天に上るだけでなく、敵である私たちをも天に導く存在になりました。

 私たちは自己正当化しようとすると、自分にだけ焦点を合わせ、神様も相手も正確に見ようとしません。自己正当化は神様を小さくする行為です。そして、それで得られる平安は決して続きません。なぜなら人は自分で自分を正しいとする権威がなく、完全な平安を作り出すほどの力がないからです。本来不可能なことを無理やりしている自己正当化という行為は、自分自身を苦しめるだけです。憎い相手と直面した時でも、相手を通してその後ろにいる神様を見るようにしてください。神様は悪人の上にも善人の上にも、太陽を登らせ雨を降らせる公平なお方です。神様は人を義認する権威と完全な平安を作り出す力を持つお方です。だから自分の基準で裁くのではなく、神様の基準に従いましょう。人の基準ではなく、神様の基準で裁かれる時が1番公正です。自分が本当に正しいと感じるのなら、権威と力ある神様に全て任せてください。たとえ自分に罪があることが発覚しても大丈夫です。イエス様を通して私たちの罪を洗い流してくださるのですから。

4。まとめ

①神様は悪人も救いたいと考えています。神様にとっては、あなたと同じように大切な子供だからです。それは、イスラエルを苦しめたエジプトを「我が民」と呼んだことからもわかります。

②自己正当化は義認の邪魔をします。私たちが救われたのは、私たちによるのではなく、一方的に100%神様によるものです。自己正当化している間は、イエス様を非難した強盗のように、一瞬の満足は得られるかもしれませんが、真の平安は訪れません。一方で、自己正当化をやめる時、イエス様を擁護した強盗のように、神様が義認してくださり、真の平安が訪れます。 

③悪人の義認ために祈りましょう。相手がエジプトのように高慢で、アッシリアのように残忍でも、相手を通して働いている神様を見てください。最後まで悪人のために祈ったイエスが天に昇り復活し、大きな使命を果たしたように、私たちが悪人の義認のために祈る時、神様があなたに平安を与え、大きな働きをされます。 

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