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祈りが叶えられない時(エレミヤ42:6)
고요한 2024-11-30 추천 0 댓글 0 조회 38

20241124 日曜午前礼拝

聖書:エレミヤ42:6

題目:祈りが叶えられない時

内容:私たちが主の中で平安を得るために重要なことは、自分の願いが叶えられるかどうかではなく、主が共におられる確信を持っているかどうかです。祈りが叶えられるのは、私たちの努力の結果によるのではなく、私たちを通して神様が栄光を表すためです。願いが叶うように祈るのではなく、主の臨在を求めましょう。主が主権を持って共におられるという確信を得るとき、私たちは真の平安を得ることができます。

説教者:高曜翰 副牧師

 

1.祖父母からもらうお小遣い

 おじいちゃんおばあちゃんは孫が来ると、孫がかわいくて、手持ちは少なくても、毎回お小遣いをあげたくなります。当然、見返りなどは求めておらず、ただ孫の喜ぶ顔が見たいからです。一方で、孫の心はどうでしょうか?おじいちゃんおばあちゃんに会う度にお小遣いをもらい続ければ、もらえなかったときに寂しさを感じることでしょう。そして、お小遣いをくれなくなったおじいちゃんおばあちゃんには会いに行こうとしなくなるかもしれません。孫の何が問題でしょうか?一つ目の問題は、孫がおじいちゃんおばあちゃんではなく、お小遣いしか見ていないということです。二つ目の問題は、孫がおじいちゃんおばあちゃんの心ではなく、自分の心にしか関心がないということです。このような孫の心は私たちクリスチャンにも起きる問題ではないでしょうか?

 

2.恐れの原因

 今日のお話の背景を理解するために3人の人物をお話しします。一人目はゲダルヤです。信仰の家系に生まれ、父アヒカムのように、命を狙われている預言者エレミヤをかくまいます。王族に仕える家系でしたが、バビロンの王からユダの総督として任命されました。

 二人目はイシマエルです。彼は王族出身ですが、将軍の一人として働いていました。ある日、ゲダルヤがユダの総督になったことを聞いて怒りがこみ上げてきました。なぜなら総督にふさわしいのは王族出身である自分だからです。彼はアモンの王バリアスを後ろ盾とし、クーデターを起こしました。ゲダルヤを食事の席で殺害し、同席していたユダヤ人とカルデヤ人も殺害しました。それだけではなく、神殿の崩壊の知らせを聞いてシケムやシロ、サマリヤからやってきた礼拝者80人のうち70人を殺害しました。財物をもって命乞いをした10人を見逃したことから、彼が国のためではなく、自分の利益のために動いていたことがわかります。そしてミヅパの人々を捕らえてアモンに連れて行こうとしました。

 三人目はヨハナンです。将軍の一人でゲダルヤを総督として支持していた人物です。ゲダルヤにイシマエルの反乱を事前に密告しましたが、嘘つき扱いされました。ゲダルヤの死後は、イシマエルを追放し、捕らえられていた人々を取り戻しました。しかし、ここで大きな問題が残りました。総督が死に、カルデヤ人が死に、サマリヤ人も死に、首謀者のイシマエルはいません。バビロンの使者に弁明したとしても、到底理解してもらえそうにない状況です。ヨハナンは恐怖に包まれ、エジプトへの避難を準備しました。そして、エレミヤに祈りを求めました。「願いを聞いてください。私たちのために、残った人々のために祈ってください。私たちの歩むべき道となすべきことを告げてください。良くても悪くても、主の言葉に聞き従います。主の声に従うことで幸せを得ます」と言いました。10日後、エレミヤの返事は「この国にとどまりなさい。バビロンに連れていかれても必ず戻ってきます。エジプトに行けばバビロンが追いかけてきて殺すでしょう。恐れてはいけません。私が共にいます」というものでした。ヨハナンはこの神様の返事を信じることができず、エレミヤに「嘘つきめ!私たちはエジプトに行く!」と言い、エレミヤとバルクをエジプトに無理やり連れて行きました。

 なぜ賢く勇敢なはずのヨハナンは、恐怖のために間違った選択をしてしまったのでしょうか?第一に、ヨハナンは神様を見ずに、祝福だけを見ていたということです。自分の願いをかなえてくれる祝福をくれなければ、神様は神様じゃないということです。祖父母を見ずにお金だけを見る孫と似ています。自分の望むものをくれれば満足しますが、くれなければがっかりします。第二に、ヨハナンは神様の心に関心がなく、自分の心にしか関心がないということです。神様を見ず、人格的な関係性がないので、神様の心を理解できないし、理解しようともしません。祖父母がどんな心でお小遣いをくれるのかには関心がなく、自分が満足できるかどうかにしか関心がないのです。その結果、誤った判断をして、命を失うことになるのです。

 

3.重い皮膚病患者のお話

 ルカによる福音書1711-19節を見ると、10人の患者が遠くから大声でイエスに「憐れんでください」と言い、治療を求める様子を見ることができます。イエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とだけ言います。彼らはそれに従って帰っていきましたが、途中で全員が癒されました。そのうちのサマリヤ人一人だけがイエスのもとに戻ってきて感謝をささげました。するとイエスは「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言いました。10人の体が癒されましたが、そのうちの一人だけが霊的にも癒されました。10人のうち1人だけが真の平安を得ました。ここで重要なのは願いが叶う以上に大切なのは、救いを得ることだということです。いくら病気が癒されても、魂の救いがなければ、結局は永遠の苦しみを受けることになります。この1人のように、完全な平安を得るためにはどうすればいいでしょうか?

 第一に、平安は祝福にあるのではなく、祝福を与える神様にあるということです。物質的な祝福は一時的なものなので、頼っても不安になります。一方で神様は永遠であり、絶対的な存在なので、頼ると平安を得ることができます。10人のうち9人は物質的な祝福だけを見て、祝福を与えたイエスを見ませんでした。しかし、1人は祝福を通してイエスを見ました。その結果、魂の救いを得ることができたのです。祝福がなくても神様だけで平安を得ることができます。物質的な祝福を求めると私たちはそれに支配されます。お金を求めると、お金によって心が支配されます。しかし、神様を求めると、神様に支配され、他の支配から解放されるのです。

 第二に、自分ではなく、自分を救う神様に関心を持ちましょう。なぜこの10人は癒しの軌跡を受けることができたのでしょうか?良い働きをしたからでもいい人だったからでもありません。ただ神様の栄光が現れるためです。私たちの祈りが聞かれるのはなぜでしょうか?願いを通してこの世の支配者である神様を知るためです。神様は人間の願いをかなえるための自動販売機ではありません。創造者であり救世主である神様は私たちに一番必要なものを必要な時にあたえるお方です。私たちは自分の願いよりも、神様の計画が完全で、私たちにもっと良いものであることを信じてください。

 第三に、祈りが聞かれない時ほど、神様だけを見つめましょう。なぜ祈りが叶わないのか?祈りが叶うのもかなわないのも同じです。祝福も苦難も私たちを神の国の民に作り替え、栄光を表すためです。祈りが叶えられたのは、たくさん祈ったからではありません。祈りが叶えられなかったのは、祈りが足りなかったからではありません。どちらも主権者である神様が共におられることを見せるためです。祈りは神様との対話です。対話を通して自分の心を伝え、神様の心を知ることが目的です。神様は直接語り掛けなくても、聖書を通して、良心を通して、人々や環境を通して答えられます。神様は確実に私たちの祈りを聞いています。大切なのは祈りに対する答えから、神様が共にいることを確信できるかどうかです。

 

4.まとめ

 祈りが聞かれず、不安な時どうすればいいでしょうか?祝福ではなく、祝福を与える神様を見ましょう。自分のことだけではなく、自分を救う神様を見ましょう。願いがかなったから平安を得るのではありません。主権者である神様が共にいる確信を持てば、平安を得ることができます。祈りが叶わない時ほど、祝福や自分ではなく神様に集中しましょう。あきらめなければ必ず平安を得ることができます。

  

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