20241124 日曜午後礼拝
聖書:ヨナ4:4
題目:ヨナの怒り
内容:ヨナは滅びるべきニネベの民が救われたことに対して、神に怒りを示しました。しかし、人の怒りは自分の義を立てる行為であり、神の義を実現する行為ではありません。人の義は神を支配しようとする罪を引き起こします。私たちは自分の義を捨てて、神様の愛に目を向けましょう。そうすれば、感情によって罪を犯すのではなく、信仰によって神様に任せることができます。
説教者:高曜翰 副牧師
“主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。” ヨナ書 4:4
1。支配欲の強い人間
誰しも自分が正しいという思いがあります。この思いが強くなると支配欲の強い人間になります。そして相手が思い通りに動かない時に怒りが爆発します。「何でいうことを聞かないの!?」と怒ったことはありませんか?支配欲が強いと、この世の支配者である神様と必ずぶつかります。
2。ヨナ
ヨナは北イスラエルの預言者としての召命を受けました。最初はヤラベアム2世の時代に祝福が与えら得ることを預言しました(列王記下14:25)。次に、敵国アッシリアのニネベに差し迫った審判を預言しました(ヨナ1:2)。自国への祝福を聞き、そして敵国の滅びを聞いて、喜んだのではないでしょうか?しかし、ヨナはヨッパからタルシシへの船に乗って反対方向に逃げました。預言者としての仕事をしたくなかったのです。それは、ヨナは神様が恵みと慈愛に満ちた方であることを知っていたからです。自分が行けば、ニネベの民が悔い改めることに気付いたのです。ヨナは悪人が救われるのが許せませんでした。ところが、船の上で嵐にあい、くじ引きに当たったヨナを人々は仕方なく海に投げ入れました。すると大きな魚がヨナを飲み込み、嵐が止みました。人々はこの事件を通して神様を知ることになりました。巨大魚の中という、死に直面した状態で、ヨナは主の顔を再び見たいと願いました(ヨナ2:4)。自分の中に偶像があることを告白しました(ヨナ2:8)。そして感謝して主に従うことを決意しました(ヨナ2:9)。三日後に、魚から吐き出されたヨナは、再び預言を受けました(ヨナ3:2)。
神様の言葉に従ってニネベの町に行ったヨナは、40日後に滅びることを伝えました。3日間歩き回らなければならない大きさでしたが、効果が1日目で現れ始めました。王様も人々も、神様を信じ、断食をし、みんな荒布を着ました。その結果、罰が去って行きました。ところが、ヨナは、ニネベが救われたことに激しく怒り、「死んだ方がマシです」と言いました。神様は「あなたの怒るのは良いことか?」と尋ねましたが、ヨナは無視して、町の外から町の成り行きを見守りました。すると、暑さを逃れるための植物が出てきて、ヨナは非常に喜びました。しかし、虫が植物を枯らし、ヨナは太陽と熱風で弱り果てました。ヨナは、「私は怒りのあまり狂い死にそうです」と怒りをあらわにしました。そんなヨナに神様は「自分で育てたわけでもない1日の間で生まれて枯れる植物をあなたは悲しむのに、12万人のニネベの民を失って私が悲しまないだろうか」と答え、物語はここで終わっています。
今日の、お話のポイントは、ヨナが神様を思い通り支配しようとしているところにあります。ヨナは神様と人格的に出会った人です。しかし、自分たちを苦しめる敵を救おうとする神様が許せません。ニネベの民より自分は義人であるという思いが怒りを生んでいるのです。そして、自分の思い通りにならないのなら、死んだほうがマシと、神様を脅迫し、支配しようとしています。
2。放蕩息子の長男(ルカ15:11−32)
イエスのたとえ話の中で、放蕩息子というものがあります。ある日、次男が生存中の父に遺産分配を願い、父は長男と次男とに遺産を分けます。次男は家を出て、遊んで遺産を使い潰しました。一方で、長男は父のもとで従い続けました。次男は苦しい生活の中、豊かな父の家での暮らしを思い出し、悔い改めて父の元に戻ってきました。父は遠くに見える次男に駆け寄り、抱きしめ、豪華な食事でもてなしました。一方で、長男は、次男が家に戻ってきて、自分が今まで食べたことのないような豪華な食事を食べていることに怒りを覚えました。しかし、父は悪態をつく長男に自ら歩み寄り、死んだと思った次男が帰ってきたことを一緒に喜んで欲しいと、自分の思いを伝えました。
長男の問題点は何でしょうか?当時のユダヤ人は長男の態度を見て、「兄としてなぜ弟を探しに行かないのか?」「家長の父に対してなんて失礼な態度を取るのか?」と思ったことでしょう。長男には、自分は正しく生きてきたので褒美を受けて当然だが、次男は悪く生きてきたので罰を受けて当然だという思いがあります。また、次男を迎え入れる父を間違っていると自分の基準で判断し、父を支配しようという思いが見えます。
父は、長男にも次男にも同じ食卓について欲しいと思っています。そのためには自分の威厳を犠牲にしても構わないと考えています。その証拠に、次男には、人々の前で、服を取り乱して抱きしめに行きました。長男には、人々の前で、自分から立ち上がって会いに行きました。このお話の重要なポイントは、自分の正しさではなく、父が犠牲の愛をもって迎えてくれたことです。
3。適用
私たち教会がすべきことは何でしょうか?次男のように神様の支配から逃げようとする人と、長男のように神様を支配しようとする人の、両方を神様の食卓に招待することです。自分の正しさではなく、神様の愛に目を向けさせる必要があります。神様を知り、経験した分だけ、私たちは自分が許された存在であることに気づきます。残念ながら、長男は父のそばにいながらも父に目を向けませんでした。ヨナは、預言者でありながら、最初神様の支配から逃げようとしました。そして悔い改め神様の支配に入りましたが、ニネベを前に神様を支配しようとしました。そのため、神様に「あなたの怒りは正しいのか?」とヨナは諭されたのです。私たちは自分よりも神様が正しいと頭ではわかっていても、心で受け入れにくい時があります。ヨナも、放蕩息子のお話の長男も、父に諭されて、その後はどうなったのか書かれていません。神様を支配しようとする心は自分では気付きにくく、治しにくい問題です。しかし、怒りが込み上げてくる時ほど、自分の正しさではなく、神様の愛に目を向けてください。しかし、自分の正しさを主張しても、人の義は神様の栄光になりません。どうか感情によって罪を犯すのではなく、信仰によって神様に任せることができますようにお祈りしましょう。
댓글0개