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怒ったイエス(マルコ11:15-18)
고요한 2025-03-15 추천 0 댓글 0 조회 35

20250316日曜午後礼拝

聖書:マルコ11:15−18

題目:怒ったイエス

内容:イエスの怒りは感情的に爆発させたものではなく、私たちを諭すための理性的な怒りでした。イエスの怒りは、悔い改めることができず裁きの未来しかないエルサレムへの悲しみが積もった結果、生まれたものです。私たちは感情に支配されるのではなく、御言葉で感情を支配し、全ての悪意を捨ててゆるし合い、イエスを悲しませるのではなく、共に喜ぶ存在になりましょう。

説教者:高曜翰 副牧師

“それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。 祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。”

‭‭マルコによる福音書‬ ‭11‬:‭15‬-‭18‬ 口語訳‬

1。怒りの種類

 怒りとは何でしょうか?心理学的には、怒りとは最初から生まれる感情ではなく、悔しい、痛い、寂しい、苦しい、悲しいといった第一次感情が元に生まれる第二次感情です。怒りが発生するのは、様々な感情がコップから溢れてしまったからです。コップの大きさを変えることはできませんが、怒りの原因となった第一次感情を見つけて、その問題を解決すれば、怒りを抑えることができます。

 そしてあえて分けるなら、怒りには、感情的な怒りと理性的な怒りがあります。感情的な怒りとは、感情に支配されている怒りを指し、理性的な怒りとは、感情を制御できている怒りを指します。つまりコップから怒りが溢れる前に、第一次感情によって行動できる怒りです。「子供を怒る」ことを感情的な怒りとするなら、「子供を叱る」ことを理性的な怒りと区別することができます。

2。イエスの宮清め

 イエスは日曜日に、平和の使者としてエルサレムに入城し、月曜日には、正義の使者として神殿に入りました。まず、イエスは外庭に位置する異邦人の庭で売買している人々を追い出しました。犠牲となる牛や羊、鳩だけでなく、捧げ物となる葡萄酒やオリーブ油、塩などを販売している商人を追い出し、それらを購入している人々をも追い出したのです。遠くから無傷で生贄の動物を連れて来ることはなかなか難しいものです。そして無事連れて来たとしても、捧げ物に適しているかどうかの厳しい検査を祭司によって受けなければなりません。多少高くても、エルサレムで検査済みの動物を買った方が安心です。しかし問題は、祭司グループと繋がっている商人たちが足元を見て暴利で販売していたことでした。

 次に、イエスは両替人の台や鳩を売る者の腰がけをひっくり返しました。20歳以上の男子は毎年神殿税として半シェケルをツロで製造した指定の銀貨で納税義務しなければなりません。当時流通していたギリシャ銀貨やローマ銀貨を、ツロの銀貨に交換する必要があったのです。しかしその両替も、祭司グループと繋がっている両替人たちが暴利で行っていたのです。貧しい人々のために用意された犠牲用の鳩も同様に暴利で販売していました。そのお金は最終的にアンナス一族の私服を肥やす結果になっていました。そして、それを異邦人の庭で行なっていたことが問題でした。商売や両替自体が悪いわけではありませんが、神殿内で異邦人たちが礼拝できる唯一の重要な場所を、悪意ある商売で汚していたのです。

 そして、イエスは器ものを持って異邦人の庭を通り抜けようとする人々を妨害しました。商売のために荷物を頻繁に運搬するため、騒がしく、異邦人たちが静かに礼拝できる状態ではなかったのです。前庭であるイスラエルの庭や中庭である婦人の庭では、ユダヤ人が礼拝できるように配慮しながら、異邦人の庭ではそのような配慮がなされていませんでした。弱者である異邦人たちが不当に扱われ、礼拝が邪魔されている状況をイエスは放っておくことができませんでした。

3。イエスの怒りの原因

 イエスは「『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。と言いました。イエスは神殿を「私の家」と表現しました。神殿は神様のものであり、アンナス・カヤパ一族のものではない、ということです。イエスは「全ての国民のため」と表現しました。祭司グループやユダヤ人だけがちゃんと礼拝できればいいわけではありません。神殿は異邦人を含めた全て人々のために存在している、ということです。イエスは「祈りの家」と表現しました。当時、神殿は生贄による礼拝の場所、会堂は御言葉による礼拝の場所でしたが、どちらでも祈りが捧げられていました。祈りは神様と私たちが対話する重要な行為であり、神殿も重要な祈りの場所でした。それなのに、祭司グループによって商売をする場所に変えられていたのです。イエスが「強盗の巣」と言ったのは、神様と繋がって命を救うための場所が、お金と繋がって命が奪われる場所になっていたからです。

 イエスの怒りをさらに加速させていたのは、祭司たちの偽善でした。神殿に入る前、イエスは弟子たちと一緒に歩いていましたが、つぼみがなく、葉だけが無駄に茂っているいちじくの木を見て、呪いをかけました。お腹がすていたのに、食べるものがなくて怒ったからではありません。外見は立派だけど、中身が空っぽである祭司たちを、つぼみのなっていないいちじくの木と重ね合わせからです。呪いによっていちじくの木を枯れるようにしたのは、見せかけの信仰者たちの末路を弟子達に見せるためです。

 しかし、イエスは決して感情を爆発させて怒ったのではありませんでした。イエスの怒りは理性的な怒りです。マルコ11:11を見ると、イエスが日曜日に神殿に入り、全てを見た後、ベタニヤに戻ったことが書いてあります。つまり、日曜日の段階で、祭司グループの悪意ある商売を目の当たりにしているのです。月曜日にいきなり神殿の悲惨な状況を見て、感情に流されて暴れたのではないということです。

 それでは、イエスの怒りの元になる感情は何だったのでしょうか?それは「悲しみ」ではないでしょうか。ルカ19:41を見ると、イエスが日曜日のエルサレム入城時に、エルサレムを見て涙を流していたことがわかります。それは神の時を知らずに、今も平和でなく悪意に生きるエルサレムを見て悲しんでいるのです。かつて、神の時を知らず、偽善の仮面の下で罪を犯し続けたエルサレム神殿は、ついにバビロンによって崩壊しました。やがて同じように、神の時を知らず、偽善の仮面の下で罪を犯し続けるエルサレム神殿が、ローマによって崩壊する未来を思い浮かべたのかもしれません。イエスは、エルサレムの人々が、神も人も自身をも欺き、自ら気づいて悔い改めることができなくなったのを見て悲しんだのです。

4。神の宮として生きるため

 まず、感情に支配されないようにしましょう。

“愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。”

‭‭ヤコブの手紙‬ ‭1‬:‭19‬-‭20‬ 口語訳‬

 イエスは感情に支配されませんでした。怒りはしましたが、感情的にではなく、理性的でした。感情的な怒りは、義になり得ません。感情的な怒りはすぐに罪につながることを認めましょう。そして、感情が穏やかな時に御言葉を覚えましょう。人の努力で怒りを抑えることは至難の業です。制御できないから怒っているのです。そんな時に早く怒りを鎮めるのは、神様しかありません。私たちの心に、自分ではなく神様を優先する心があれば、神様が助けてくださいます。

 次に、全ての悪意を捨てましょう。

“神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。 すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。”

‭‭エペソ人への手紙‬ ‭4‬:‭30‬-‭31‬ 口語訳‬

 イエスは、悪意に満ちたエルサレムを見て涙を流されました。悪意は神様を悲しませるものです。仕方がないと言って、誰かに怒りや悪意の感情を持っていたとしたら、私たちは神の国に入ることができません。それもまた神様を悲しませるものです。たとえ相手が悪意を持ってやってきたとしても、私たちは悪意を持って対抗するのではなく、神様に頼りましょう。

 また、悪意とお金は非常に密接な関係です。お金自体が悪いわけではありませんが、お金を優先する生き方をしていれば、必ず悪意が入ってきます。神殿の祭司たちのようなお金中心の生き方はやめましょう。お金を優先することで、神様を無視し、人を無視するようになった時、イエス様がしたように全てを片付けられてしまいます。私たちは商売の家ではなく、祈りの家です。

 最後に、ゆるし合いましょう。

互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。”

‭‭エペソ人への手紙‬ ‭4‬:‭‭32‬ 口語訳‬

 イエスは、異邦人を憐れまず、無視する祭司たちを叱りました。祭司たちは、表面的には異邦人向けの礼拝場所を設けておきながら、内面的には異邦人を無視していたのです。異邦人を友として迎えることをゆるせない思いがあったのです。イエスは枯れたいちじくの木を見て、祈りについて弟子達に説明しました。その時、祈りの条件として、友をゆるすこと、を話ししています。ゆるす者の祈りが山を動かし、ゆるす者の祈りが願いを叶えるのです。

4。まとめ

①感情に支配されないようにしましょう。

②全ての悪意を捨てましょう。

③ゆるし合いましょう。 

→そうすることで、私たちは神様を悲しませず、共に喜ぶ存在になります。 

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