20250330 日曜午前礼拝
聖書:マルコ12:18−27
題目:復活を喜べるか?
説教者:高曜翰 副牧師
“復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。”
マルコによる福音書 12:18-27 口語訳
1。視点の変化がもたらすもの
波多野鶴吉(1858-1918)は京都府何鹿郡(現・綾部市)生まれました。小さい頃は勉強熱心でしたが、18才で市内に出ると遊興にふけるようになりました。当然遊んでばかりではおられないため、お金を稼ぐため、塾や古書店、出版事業を興しますが、全て失敗してしまいます。故郷へ帰り、小学校の代用教員として働くようになりました。子供達が授業中によく居眠りする原因が、家業の養蚕の手伝いだと知り、そんな子供達のためにも故郷を良くしたい気持ちが芽生えました。そんな中、聖書と出会い、良い実を求めるには、まず良い木を作らなくてはいけないことを知りました。
彼は製糸会社を設立し、名前を「郡是(グンゼ)」と名付けました。郡の正しい方針という意味です。お金儲けのためではなく、郡全体の発展のために会社を運用しようと考えたからです。これまでは、会社はお金を儲けるための場所でしたが、これからは人を育てるための場所だと考えるようになりました。聖書の言葉によって視点が変わったのです。
当時、製糸工場の環境派「粗悪な食事、長時間労働、低賃金」と最底辺のものでした。しかし、彼は働く女性たちに聖書をはじめ、読書、裁縫、算術を教え、自分の娘を育てるように接しました。「職工を良くしたいなら、まずあなた自身が良くなりなさい」と教え、利益の向上ではなく人の育成に力を入れました。
また、当時の製糸工場の製品というのは、利益を出すために、見本と違うニ流品を混ぜるというのが一般的だったそうです。しかし彼は、「信頼される人が信頼される糸を作る」として、一流品だけを作り販売しました。それでは会社が成り立たないと多くの反対を受けました。しかし、グンゼの製品は検査がいらないと言われるまで信頼されるようになり、従業員は2万人を超えました。
イエスとの出会いは、人生の目的を変えます。物から人に、見えるものから見えないものに、受けることから与えることに視点を変えてしまう力があるのです。
2。サドカイ人の間違いを指摘するイエス
エルサレムでの、イエスの最後の1週間の火曜日の出来事です。サドカイ人が「7人兄弟と順にレビラト婚をした女性は、復活の際に誰の妻になるのですか?」と尋ねました。サドカイ人とは祭司長からなる貴族階級の指導者達のことを言います。ローマとの良好な関係を優先する人々です。そしてモーセ五書以外は比喩で書かれており、文字通り信じてはいけないと考えていました。パリサイ人と違い、復活も信じていませんでした。レビラト婚とは死亡した夫の代わりにその兄弟がその妻と結婚して子孫を残すという慣習です。ユダヤ人にとっては、申命記25:5で定められた義務で、立場の弱い寡婦を守るための律法でした。世界的に遊牧民族に見られる慣習ですが、1875年に禁止されるまでも見られたそうです。こんな質問をした目的は何でしょうか?何でも質問に答えてしまうイエスに赤っ恥をかかせるためです。サドカイ人は現状維持派の現実主義者です。イエスの教える復活なんてものに興味はありません。しかし、イエスの教えは現実離れしていて、現状を変えて自分たちの地位を脅かす危険性があるため、イエスと敵対しています。
イエスは「あなたがたは思い違いをしている。聖書も神の力も知らないから。」と答えました。思い違いをしているとはどういうことでしょうか?サドカイ人たちはイエスが答えられない様な高レベルな質問を用意してきたつもりでした。しかし、イエスは質問自体が間違っており、答える必要のない低レベルな質問だと言っているのです。聖書も神の力も知らないからだとも言っています。それは神の律法に詳しいはずの祭司たちが、結婚の意味もわからず、復活の証拠も見逃しているからです。
イエスは、「復活の際には、結婚制度が不要となり、天使のような体を獲得している」と言っています。サドカイ人は結婚を社会的地位を保つためや自分の満足感を満たすた目の道具程度に考えていました。その証拠に、気に入らなければ離婚してもいいし、モーセの律法も離婚を認めていると主張していました。しかし、神様の定めた結婚は違います。結婚は神と人との関係を学び、神の家族を作るためにあるのです。復活の時には、復活する者はすでに神様との関係が修復済みであり、神の家族が完成している状態です。従って、天使が結婚しないように、人も結婚する必要がないのです。復活の際には私たちは完全な体を手に入れているのです。私たちはサドカイ人のように間違って復活を理解していないでしょうか?サドカイ人の問題は、信じていない以上に、復活をこの世での生活の延長線上程度に考えていることです。その程度の復活は必要ないと考えるのは当然です。しかし実際は、復活すれば神の御心を理解し実現できる完全な心と体が与えられるのです。
またイエスは「モーセに言った神様の自己紹介の言葉が復活の存在を証明している」と言っています。通常、パリサイ人などが復活を説明する際には、イザヤ書やエゼキエル書、ダニエル書などから引用します。しかしサドカイ人は、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)しか認めていないため、他の出典を受け入れません。しかしイエスはその中にも復活の証拠があると教えているのです。それは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉です。通常、この紹介文は契約を強調する時に用います。そして、契約は生きている者にだけ適用され、死んだ者には適用されません。しかし、神様は、アブラハムが死んだモーセの時代でも「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と自己紹介をしています。決して「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だった」とは言いませんでした。神様は誠実な方であるので、つまり、神様は生き返ったアブラハムに契約の結果を必ず見せるということです。だから「死んだ者の神ではなく生きている者の神」だと言っているのです。
3。復活を喜ぶためには?
まず、1番に大切なことは人間的な視点ではなく、神の視点で見ることです。
“そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、”
コロサイ人への手紙 1:9 口語訳
弟子たちは3年半の間、イエスと一緒にいても、イエスを理解できませんでした。イエスが霊的な話をしても、弟子たちは肉体的にしか考えられなかったからです。同じものを見ても、見る角度が違えば、受け止め方が違ってきます。視点が違えば、神様が同じ祝福を与えたとしても、人によって、祝福にも呪いにもなってしまうのです。信仰生活で重要なのは、神様と同じ霊的な視線で見ることです。サドカイ人は常に肉体的な視点でしか物事を見ていませんでした。目に見える物だけを信じ、神殿さえあれば、今が良ければそれで良い、復活はいらないという考え方になっていました。見えるものにこだわると、見えない所で起きてる変化も知ろうとしなくなってしまします。その結果、AD70年の神殿崩壊と共にサドカイ人も消滅してしまいました。目に見える物だけ信じると、その物が滅びる時一緒に滅びてしまいます。私たちは霊的な視点で見ているでしょうか?人生が良くなるための、目に見えるものに焦点を合わせる信仰生活なら、サドカイ人と何ら変わりありません。神の国の民として、目に見えないものを大切にする神の視点で考えられなければ、意味がないのです。例えば、夕方に子供が病気になって、どこの病院に連れていくべきかを気にする母親と、そんな環境でも自分の夕ご飯を気にする父親がいたらどうでしょうか?話が噛み合わず、夫婦生活が大変になってしまいます。私たちに必要なのは、物質的な幸せに焦点を合わせる人間的な視点ではなく、目に見えない物を大切にする神様の視点で見ることです。そのための霊的な知恵と理解力を求めましょう。
次に、復活とはこの世の延長線上のものではなく、新しく生まれ変わることです。
“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。”
コリント人への第二の手紙 5:17 口語訳
私たちはこのように復活を、この世での延長線上にある人生だと誤解していませんでしょうか?死んだ人とこの世で再会できる程度のものではありません。老いていくこの体で生き返っても、辛いことばかりです。相変わらず夫の気持ちは分からないままの不便な体です。一方でイエスの教える新しい体は、老いることも悲しみもなく、神様の気持ちも理解できる様になるのです。車で例えるなら、この世の考える復活した体とは、一度は修理して綺麗にはなりましたが、劣化するし、臭いもするし、事故も起こす車です。しかし、本当に復活した体とは、劣化せず、乗るたびに新しく、事故も起こらない車です。この世ではあり得ない体を私たちは手に入れることができるのです。また、私たちは天国を肉体的な満足を満たす場所として考えてはいませんでしょうか?人は自分が王となり、神となる世界を求めますが、そんな場所は存在しません。聖書のいう天国(神の国)とは王である神様と神の民が共に暮らし、霊的に満たされる場所を言います。このように言うと、復活して天国に行くことが楽しいことなのか?と聞こえてきそうです。サドカイ人の様に、富も権力ある人には復活も天国も興味がないのは当然かもしれません。復活や天国の素晴らしさというのは、人間的な視点で見る限り、いくら説明してもなかなか分かってもらえないものなのです。ビデオゲームに集中している人に、サッカーの楽しさを説明をしても、分かってもらえないのと似ています。神様中心に生きる人だけが持つことのできる喜びが復活なのです。
だから、私たちは霊的な視点をもって生きましょう
“わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。”
コリント人への第二の手紙 4:18 口語訳
イエスは復活してから40日間、弟子たちに神の国について教えました。霊的な視点を持ち、聖霊を受けさせるためです。イエスが生きている間は、弟子たちの霊的な目が閉じていました。自分が高い地位を手に入れることにこだわり、死を恐れて逃げました。しかし、霊的な目が開けると、見える物ではなく、見えない物に目を注ぐようになります。弟子たちは、自分ではなく、人の救いのために死を恐れず宣教する人に変わったのです。御言葉によって視点が変わったのです。私たちの視線はどこにありますか?明日を生きるのに忙しくて、復活にも天国にも関心を示すことができないですか?子供達に、良い学校に入って、給料の高い会社で働いて、結婚することを強要していませんか?私たちがサドカイ人の様に、見える物にしか関心を示せないなら、目に見える物と共に終わる人生が待っています。
4。まとめ
あなたは復活を喜べますか?人間的視点ではなく、神様の視点で考えるようにしましょう。復活は新しい体で生まれ変わることであり、喜ばしいことです。霊的な視点を持って復活の時を待ち望む人生を送りましょう。
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