20250406 日曜午後礼拝
聖書:マルコ14:36
題目:悲しみで死にそうなイエス
内容:イエスは、進むべき十字架への道が恐ろしくなり、父なる神様に祈りました。しかし、自分の思い通りにではなく、神様の思い通りなるように祈りました。そして、自分の思いを神様の思いに合わせることができた結果、死にそうな悲しみが過ぎ去ったのです。私たちもイエスのように自分の思いを神様の思いに合わせられるように祈りましょう。
説教者:高曜翰 副牧師
「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
マルコによる福音書 14:36 口語訳
1。思い通りになってしまった悲惨な事例
30年ほど前、割り箸が環境破壊になっていると話題になりました。割り箸を作るために木を伐採するからだという理由です。そして自分の箸を持ち歩くマイ箸ブームが起こりました。そのため、割り箸工場数は359から99と、労働者数は4000から450と激減しました。その結果、これまで割り箸の製造に用いられていた端材や間伐材はそのまま廃棄されるように、割り箸の製造販売で発生していた収益を環境保全のために用いる事ができなくなり、山が荒れるようになりました。一方で、年間200億膳という割り箸の消費量は大きく変わらず、輸入量が52%から97%と大幅に増加しました。残念ながら、国内製造と違い、輸入品の多くは、とても安価ですが、割り箸製造を目的に伐採しており、強い薬品を使用するため、環境に悪影響を及ぼしています。近年では、環境負荷が少ないと世界的に評価を集めていますが、国内の割り箸製造業が作り上げた経済サイクルはすでに破壊され、元に戻すことができない状態です。これは、環境活動家たちの思い通りになってしまった悲惨な事例の一つではないでしょうか。
(参考:森林・林業学習館)
2。イエスの祈り
今日の聖句は、最後の晩餐の後、ユダの裏切りによって逮捕される前の出来事です。イエスはその時が来るのをただじっと待っているのではなく、神様に祈りました。この張り詰めた状況の中で、イエスはどのように祈ったのか、今日は核心部分だけを見てみましょう。
イエスは「アバ、父よ、あなたはには、できないことはありません」と祈りました。「アバ」とは、小さい子供が父親を呼ぶ時に使うアラム語です。公共の場で呼びかけるような厳格な父のイメージではなく、本心から語りかける優しい父のイメージです。イエスは親しい親子の関係の中で神様に語りかけているのです。そして原文を見ると「あなたにとって、全ての事が可能です」と続けています。全能なる神様には不可能がないこと、子供の願いを全て叶えることのできる父親であることを認めています。その上で、神様にお願い事を話そうとしているのですが、明るい雰囲気ではありません。マルコ14:34では、「悲しみのあまり死ぬほど」だと言っています。弟子たちから見たら、とても驚いた事でしょう。いつも堂々としている先生が「死にそう」だと弱音を吐いているのですから。
イエスは「この杯を私から取りのけて下さい」と続けました。「この杯」とは、イスラエルの不貞による神の怒りの杯であり、飲めば死ぬ杯です。本来、イエスは神の怒りを買っていないので、飲むべき理由はありません。しかし、イエスが飲むことは、神の計画の中で最初から決まっていた事でした。イエスはその運命の杯を「私から取り除いてください」と願っています。自分の運命をわかってはいましたが、その時が近づくにつれて恐ろしくなってきたのです。神の怒りを受け取って死ぬことが恐ろしいのです。イエスはまだ30代です。死なない方法や、神の怒りを受け取る以外の別の方法があるのではないか?と考えた事でしょう。イエスにとってもこの運命はとても辛いものでした。マルコ14:35では、「地にひれ伏した」とあります。当時、立ったまま上を見て祈るのが普通でしたが、イエスはこの時、座って下を見て祈りました。これまでひれ伏す事がなかったイエスが、ひれ伏しているという奇妙な光景です。そして、ルカ22:44では「血の汗が地に落ちた」とあります。イエスは毛細血管が破れて汗と混ざる血汗症になり、その汗がしたたり落ちるほど、極度のストレス状態にあった事がわかります。それほど十字架の道を避けたかったのです。
イエスは「しかし、私の思いではなく、御心のままになさってください」と終えました。「私の思い」とはイエス自身の思いであり、逃げる道です。「御心」とは父なる神様の思いであり、十字架の道です。イエスの葛藤は、十字架の道を受け入れたくない思いと受け入れなければならない思いの間で起こりました。しかし、搾油器を意味するゲッセマネの場所で、イエスの血の汗が搾り出され、「御心のままになさってください」という告白が搾り出されました。裏切り者のユダが探しに来るのをわかっていながら、いつもの場所を祈りの場に選んだのを見ると、イエスは自分の選ぶべき道を最初から知っていた事がわかります。イエスは、人の肉なる思いよりも、父の思いがもっと良い結果を生む事を知っていました。しかし、弱い人の体を持っているため、わかっていても心がついてこなかっのでしょう。だから祈ったのです。イエスは祈りを通して、自分の気持ちを整理し、父の思いに合わせる事ができたのです。それは、ルカ1:38で受胎告知を受けた母のマリヤが「御言葉通りこの身になりますように」と祈ったのと同じ状況でした。理解できなくても、神様の思いを優先できるようになるために祈るのです。母マリヤが祈りを通して、出産の道を大胆に歩く事ができたように、イエスも祈りを通して、十字架の道を大胆に歩く事ができたのです。
3。祈る目的
まず、知っておくべきことは、「自分の思い通りにいく事がいい事とは限らない」という事です。
“天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。”
イザヤ書 55:9 口語訳
人間の知恵には限界があり、全てを把握する事は不可能です。欠点のある人間が作った計画には欠点があるのが当然です。割り箸の事例に見られるように、良い事をしたつもりでも、取り返しのつかないことになった事例はたくさんあります。また、快楽順応という性質のために、思い通りにいくからといって幸福が得られるわけではありません。むしろ、思い通りにいく天才ほど、欲深くなり、高慢になります。逆に、思い通りにいかない人ほど、謙遜に努力し、できない人の気持ちに寄り添う事ができます。信仰生活でも同じです。思い通りにいかない人ほど、自分ではなく神様を頼り、隣人と苦労を分かち合う人になれます。
そして、「神様の思い通りに行くことはいつもいい事だ」という事です。
“忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。”
ヤコブの手紙 5:11 口語訳
神様がヨブにしたように、一見マイナスのように見えて、最後はプラスにするのが神様です。それは気まぐれではなく、慈愛と憐れみによるものです。そしてその慈愛と憐れみは、たとえ裏切られたとしても、いつまでも変わりません。一方で人間の心は、うまくいってもいかなくても、最初の純粋な気持ちを忘れ、小さなことで簡単に揺れて、罪に支配されます。たとえ祝福を与えたとしても、呪いとして受け止めてしまうほど人間は弱いのです。しかし、そんな弱い人間を神様は変わらずに愛してくださいます。苦難は、ヨブのように祝福を十分に味わえる人間に作り変えるためです。神様のなされる事は最終的にいつも良いことになります。
だから、私たちは、自分の思いを神様に合わせるために祈りましょう。
“御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。”
マタイによる福音書 6:10 口語訳
イエスは、「自分の願いが叶えられるように」とは教えませんでした。むしろ、自分の思い通りではなく、神様の思い通りになることを願うように教えました。自分の願いが叶うように願うのが祈りではないのです。確かに、私たちの心の内を打ち明けるのはとても重要です。しかし、私たちの願い通りになることが重要なのではないのです。一番重要なのは、私たちの思いを神様に合わせる事なのです。自分の思いを神様に合わせることで、死ぬほどの悲しみも癒されるのです。なぜなら、良い結果をもたらすのは、人間のちっぽけな計画ではなく、偉大な神様の計画だと聖書が教えているからです。ヤコブの祈りは、ヤコブを負傷させて逃げられなくしましたが、そのおかげでエサウと和解できました。ハンナの祈りは、環境が何も変わっていないのに、心に平安を与えました。そしてイエスの祈りは、自分の思いを諦めさせましたが、人々を救う十字架の道を大胆に進む力を与えました。祈りの核心は、自分の願いが叶うことではなく、自分の願いを神様の願いに合わせることなのです。
4。まとめ
死にたくなるほど悲しい時、皆さんはどのように祈りますか?自分の思い通りになる事がいい事とは限りません。しかし、神様の思い通りになる事はいつもいい事です。私たちは、イエスのように、自分の思い通りではなく、神様の思い通りになるように祈りましょう。それが、死にたくなるほど悲しい思いを消し去る一番良い方法です。
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