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ハンナの祈り(サムエル上1:11)
고요한 2025-05-10 추천 0 댓글 0 조회 27

20250511日曜午後礼拝

聖書:1サムエル1:11

題目:ハンナの祈り

讃美:361、370

説教者:高曜翰 副牧師

“そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。”

‭‭サムエル記上‬ ‭1‬:‭11‬ 口語訳‬

1。夫婦喧嘩の原因

 夫婦喧嘩の原因について調べたところ、だいたいこの3つに集約されることがわかりました。1つ目は「言葉遣い」です。同じ内容でも、皮肉を込めて言うと受け取り方がだいぶ変わってしまい、喧嘩になります。2つ目は「生活態度」です。口で言うだけで、行動しない姿を見ると、腹が立ってしまい、喧嘩になります。そして3つ目が一番重要なのですが、「対話不足」です。対話がないと、一方的に相手の考えを想像して決めつけてしまい、その結果、話が噛み合わず、喧嘩になります。感情的な喧嘩になると、不信感や孤立感から、さらに対話ができなくなるなります。

 特に、3つ目は神様との関係においても重要です。信仰がなくなるのは、神様との対話不足が大きな原因です。私たちは祈りの中で、一方的に自分の意見を押し付け、神様に対して不信感や孤立感を感じてはいませんか?対話でない祈りは、自分の想像した神様像を膨らませ、実際の神様との差に失望する結果しか生み出しません。祈りのない信仰ほど危険なのです。

2。ハンナの祈り

 ハンナは士師の時代に生まれました。人々が神様に尋ねることをやめ、自分の基準に従って生きた時代です。神様との対話がなく、誰も神様の思いを気にしなくなっていました。祭司エリの息子ホフ二とピネハスは主を知らない祭司だったとあります(1サムエル2:12)。神様と対話する権威を与えられた祭司ですら、神様と対話できていない暗黒の時代でした。

 ハンナには夫のエルカナがいました。そして夫にはもう1人の妻ペニンナがいました。ペニンナには息子と娘たちが10人以上いましたが、ハンナには1人もいませんでした。神様がハンナに子供ができないようにした、とあります(1サムエル1:5)。当時子供のいない女性は、神様の祝福を受けられず、呪われていると考えられていました。それだけでも辛いのに、ペニンナがハンナをいじめました(1サムエル1:6)。夫はたくさんのものをハンナに与えましたが、ハンナを癒すことはできませんでした(1サムエル1:8)。神殿での礼拝の後、ハンナは1人残って祈りました。そして、「男の子をくれるなら、その子の一生を神に捧げます」と告白しました。

 すると、ハンナに変化が起こりました。食事が喉を通るようになり、顔も明るくなりました。何も環境は変わっていません。子供もまだ与えられておらず、いじめるペニンナはそばにいます。神様からの応答があったわけでもありません。しかし、ハンナは祈りを通して癒されたのです。

 なぜ癒されたのでしょうか?それは、自分の人生を神様に捧げる決意をしたからです。子供を捧げると言うのは、自分の最も大切なものを差し出すと言う意味で、自分の人生を差し出すことを表しています。自分を差し出すことは、神様との対話の基本です。祭司が生贄を捧げる礼拝を通して神様の声を聞くことができたように、罪人である私たちも自分を捧げることで、聖なる神様と対話をすることができるのです。人間同士の対話ですら、犠牲を払おうとしない相手とは対話が成り立ちません。重要なのは捧げる祈りをすることです。苦しめる人がいなくなったり、願いが聞き入れられることで、平安を手に入れたのではありません。捧げることで対話ができ、神様との誤解が解けて、平安を得ることができたのです。

3。対話不足から来る不信仰

 今日の本文から、私たちの不信仰は神様との対話不足が原因であることがわかります。

“朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。”

‭‭マルコによる福音書‬ ‭1‬:‭35‬ 口語訳‬

イエスは神様との対話を欠かしませんでした。夜明け前でも、神様との対話に集中するために、わざわざ寂しいところに出かけて行きました。特に12弟子を選ぶ前や、十字架にかかる前にも祈りを通して神様の御心を確認しました。イエスが神様を誤解せずに、その人生を大胆に全うできたのも、イエスの優れた才能によるのではありません。神様との対話によって、意思疎通ができていたおかげなのです。

 サムエル上4章を見ると、イスラエル人とペリシテ人との戦いが描かれています。1回目の戦いで4000人のイスラエル兵が死にました。神様に尋ねなかったことが原因です。しかし、イスラエルの長老たちは負けた原因を契約の箱に求めました。主を知らない祭司であるホフ二とピネハスが自分勝手に契約の箱を持ってきました。契約の箱が戦場に到着すると、イスラエル陣営は大声で歓声を上げ、地鳴りが起きました。ペリシテ人は神々が来たと恐れました。しかし、その結果は散々なものでした。イスラエル兵30,000人が死に、契約の箱は奪われました。祭司のホフニとピネハスが死に、それを聞いたエリもショックを受けて死にました。ピネハスの妻も、栄光はイスラエルを去ったと言って、子供を産んで死んでしまいました。

 なぜ負けたのでしょうか?ペリシテ人のように高度な文明が無かったからでしょうか?契約の箱が奪われたからでしょうか?違います。神様との対話ができておらず、神様の計画が分からなかったからです。神の民であるイスラエルは、神様と共にいることで、信仰によって勝利できる存在です。それなのに、対話がないせいで、信仰のレベルが偶像崇拝するペリシテ人と同じ水準まで落ちていたことが問題でした。

4。対話に必要なのは自分を捧げること

 次に、神様との対話で必要なのは、自分を捧げることです。

“そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。”

‭‭マタイによる福音書‬ ‭26‬:‭39‬ 口語訳‬

 イエスは、神様との対話を通して、自分の考えを神様に合わせました。自分を神様の計画の中に捧げたことで、大胆に十字架の道に行くことができました。一方的な要求は対話になりません。私たちはすでに神様から「救い」という十分すぎる恵みを受けました。これ以上要求することは図々しいくらいです。もちろん子供である私たちの図々しい願いも神様は喜んで聞いてくださるお方です。しかし、そのためには神様の子供としての振る舞いが求められます。そして、その振る舞いとは、神様の計画に入ることです。

 なぜ苦しみがあるのでしょうか?神様に自分を捧げられていないからです。神様には神様の計画があります。それは私たちが何百年考えても到達できない素晴らしい計画です。私たちはその計画を無視して、自分のみすぼらしい計画通りにしようとするから苦しむのです。自分の考えに意固地にならず、神様に自分を捧げて下さい。神様の考えを変えることは人間には不可能です。だから神様から差し出してもらうことばかり考えるのはやめましょう。自分の考えを降ろして、神様に合わせることがはるかに簡単で正しいことなのです。

 夫婦間でも同じではないでしょうか?自分の考えを一方的に押し付けたり、相手をいかに説得するかを目的とした対話をするのであれば、うまくいくはずがありません。仕事でも、相手の意見を受け入れず、自分の製品を押し付けるような営業は嫌がられます。ましてや、神様との関係の中ではなおさらです。自分の願いを押し付け、神様の計画を無視するならば、そのような対話は積み重ねても意味がありません。何かをもらおうとするのではなく、自分を差し出した時、道が切り開かれるのです。

 神様がハンナに子供を与えなかったのは、ハンナが憎いからではありません。神様の時があるのです。もし神様がすぐにハンナに子供を与えていたのなら、夫や子供ではなく、神様に頼る人生にこそ平安があることが分からなかったでしょう。そして立派なサムエルも生まれなかったかも知れません。自分の子供を捧げる祈りをしたことで、ハンナは子供を授かる前に平安を得た事を忘れないでください。

 

5。対話するための聖書

 そして聖書を読みましょう。対話するために欠かせないものです。

“あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。”

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭15‬:‭7‬ 口語訳‬

 イエスは「私の言葉がとどまっているならば」と言いました。ただ 「信じて求めるものは、みな与えられる(マタイ21:22)、というわけではないのです。神に人生の主権を返し、キリストの人生を歩むならばという意味があるのです。聖書を読まないと、私たちは神様を誤解してしまいます。アメリカ人と対話するために英語が必要なように、神様と対話するためには聖書の言葉が必要なのです。

 私たちの祈りはおおよそ、神様が直接語りかけてくださることはありません。なぜなら神様の言いたいことは全て聖書に書いてあるからです。聖書を読み、その言葉を用いて祈ることが、私たちが神様と対話をすることになるのです。神様の答えは、私たちの良心を通して、環境を通しても与えられますが、やはり御言葉を通して与えられる部分が大きいです。対話の答えを知りたければ、聖書を読む必要があるのです。

 いつも子供に申し訳ないと思っている母親がいました。貧しさのために、子供に良い暮らしや教育を受けさせることができないと、子供に可哀想だと言っていました。子供は自分が可哀想な存在なんだと思い込むようになりました。一見、心優しい母親のように見えますが、神様の導きを無視しています。聖書の言葉を知らないことが原因です。夫婦が些細な言葉遣いで誤解して喧嘩してしまうように、私たちも聖書の言葉を知らなければ、神様のせいで惨めな人生を送っていると誤解します。神様を信じて生きてきたのなら、私たちの人生において昔も今も神様が働いています。哀想だという言葉は、そんな神様を神様を誤解し、無視していることと同じではないでしょうか。人と比べてどんなに惨めな人生に見えても、神様の導きの中にあれば、全てが栄光に変わります。ここにいるすべての人の人生において神様が働かれています。それを知るためには、やはり聖書の言葉を知る必要があるのです。

6。まとめ

 ハンナは神様との対話を通して、自分を神様の計画の中に捧げることで、平安を得ることができました。私たちも、神様に一方的な要求をするのではなく、聖書の御言葉を持って、神様と対話をして下さい。私たちが不安で惨めに感じる原因は、他のものではなく、神様との対話の時間不足です。聖書の言葉を学び神様と対話することで、神様を正しく理解するようになり、神様が今も私たちと共にいて働いている事を実感することができます。自分の人生が失敗だなんてとても言えなくなります。私たちの人生はすでに神様の導きの中にあります。私たちも祈りを通してハンナのように、神様と対話しましょう。

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