20250525日曜午後礼拝
聖書:イザヤ45:1−6
題目:油注がれたクロス
讃美:68、79
説教者:高曜翰 副牧師
“わたしはわが受膏者クロスの/右の手をとって、もろもろの国をその前に従わせ、もろもろの王の腰を解き、とびらをその前に開かせて、門を閉じさせない、と言われる主は/その受膏者クロスにこう言われる、 「わたしはあなたの前に行って、もろもろの山を平らにし、青銅のとびらをこわし、鉄の貫の木を断ち切り、 あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだ/イスラエルの神であることをあなたに知らせよう。 わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。 わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。 これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを/知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない。”
イザヤ書 45:1-6 口語訳
1。未信者をも用いる神様
ウィリアム・ティンダル(1494−1536)はイングランド人神学者です。ラテン語ではなく「全ての人が母国語で読めるようにすべき」という理念を持ったため、イングランド教会に異端認定されました。当時の教会は、一般庶民に聖書を読ませると、誤った解釈や反乱が起こると恐れていたからです。ベルギーに避難して活動していたティンダルですが、神聖ローマ帝国に逮捕されました。宗教裁判で異端宣告され、1536年に絞首刑及び火あぶりの刑が決定しました。最後の言葉は「主よ、イングランド王の目を開いてください」でした。
そのイングランド王であるヘンリー8世は、ルターの宗教改革にも反対する姿勢を示し、ローマ教皇からは「信仰擁護者」の称号を受けるカトリック信者でした。ところが、子供ができないという理由から、離婚して別の人物と結婚しようとしたところ、教皇に反対され、反目するようになりました。1534年、自分をイングランド教会の最高権威とし、教皇から独立を宣言しました。ティンダルの死後、自分の権威の正当化のため「英語聖書」の使用を認めました。そして1539年、イングランドの全教会に英語聖書の設置を義務付けました。教会からローマ教皇の影響力を排除し、国が直接管理するためです。その聖書は、自分が批判したティンダルの訳が基礎となりました。
ヘンリー8世は信仰から宗教改革をしたのではありません。自分の欲望のためでした。しかし、神様が信仰のないヘンリー8世を用いて、高慢な教会に打撃を与えたのです。その結果、民衆にも神様の言葉が伝わるようになりました。そして1611年に完成したKJVの聖書には、ティンダル訳が8割ほど導入されています。ヘンリー8世は、信仰のある人を通して働かれる神様が、信仰のない人も器として用いる例だと言えるのではないでしょうか。
2。クロス王の預言
イザヤ45章1節には「受膏者」クロスとあります。「油注がれた者」を意味するメシアの称号が与えられています。通常、メシアはイスラエルの王や祭司に与えられる称号であり、異邦人には資格のないものです。しかし、神様はクロスが生まれる150年前に、名指しで預言し、メシアの称号を与えているのです。先週お話しした42章で出てる預言「東からやってくる一人の男」の正体が、ペルシャ人クロスなのです。
「右の手をとって、国々をその前に従わせ、諸々の王の腰を解く」とあります。「右の手をとって」は神が戦いを導くという意味です。クロスの軍事力ではなく、神様の力によって国々がクロスにひれ伏すということです。「王の腰を解く」とは、武力や権威といった力を脱がせて屈服させるという意味です。実際、10以上の国を滅ぼし、過去最大の版図をクロスは築きます。
「門が開いて、閉じられない」とは、神の介入による奇跡的な勝利を意味します。閉じて当然の門が閉じられないのです。実際、バビロンのマルドゥク神の祭司たちは城門を開いて、クロスを迎え入れたと言われています。クロスはバビロンを無血で征服したのです。
2節では、「私はあなたの前に行って、諸々の山を平らにする」とあります。古代の戦争では、王や将軍が行く前に、道を整えて地形や敵情を偵察させました。勝利には道を整えることが重要なのです。その役目を神様自身が請け負いました。「山」とは困難や抵抗、混乱といった障壁です。神様がクロスのために障壁を取り除き、道を整えたのです。
「青銅の扉を壊し、鉄のかんぬきをへし折る」とあります。青銅は都市の門や城壁に使われ、都市の防御手段を象徴します。鉄は当時の最強の強度を誇る強さの武器で、門を守る強力な錠に使われると、破ることが困難になりました。これを「へし折る」のです。絶対に閉じられているはずの道が、神様によって開かれることを意味します。
3節では、「暗い所にある財宝と、密かな所に隠した宝物を与えよう」とあります。暗い所や密かな所にある宝」とはバビロンの神殿や倉庫、地下室にある古代世界屈指の富を指します。それらを神様がクロスに「与え」るのです。実際クロスは、戦わずにバビロンに潜入し、富を得ました。
神様がそこまでクロスを手厚く援助し、祝福と成功を与えたのには理由があります。「私が主であり、イスラエルの神である事を知るため」です。神様はクロス自身が神を知るようになる機会を与えました。クロスを通して異邦人の王たちも神の支配を知るようになるためです。
4節では、「わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために」とあります。重要なのは、クロスに栄誉と権力を与えた一番の目的は、イスラエルのためだということです。」この言葉には、イスラエルに対する特別な神様の気持ちが滲み出ています。クロスは大きな偉業を達成しますが、イスラエルを回復する手段に過ぎないという意味があります。
そして「わたしはあなたの名を呼んだ。わたしはあなたに名を与えた」とあります。単なる偶然でも、クロス自らの功績でもありません。クロスが歴史の舞台に立ったのは、神様の呼びかけによるものです。そして特別な「油注がれた者」の称号を与えたのです。
「 あなたがわたしを知らなくても」とあります。クロスは、ユダヤ人ではなく、多神教的ペルシャ文化の人間です。イスラエルの神を知りません。しかし神は、そのような異邦人の王すら用いるのです。ここに神の主権的選びがあります。神は信仰者でなくても用いられるお方です。
5節で「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない」とあります。「主」というのは「ヤハウェ」のことで、神様の契約名です。イスラエルと契約関係にある神だと紹介しています。「他にはない」というのは、唯一の存在であり、他の神々とは完全に異なる存在であることを伝えています。そして、クロスがどんな神を信じていても、真の神はご自身おひとりであり、変わりがないということを伝えています。
「わたしはあなたを強くする」とあります。クロスは破竹の勢いで勝利を重ねバビロンを陥落させ、大帝国を築きました。しかしその成功を、クロスの力ではなく、神が与えた結果だと言っているのです。
そして「あなたがわたしを知らなくても」強くするといっています。キュロスシリンダーという歴史的資料によると、クロスはマルドゥク神に選ばれ、解放者として登場したとあります。しかし聖書によれば、実際150年前から主権的に神様が選んでいたことがわかります。神の計画において、信仰のあるなし以上に神の主権が重要であることがわかります。
6節で「日の出る方から、また西の方から」とあります。全世界を象徴する表現であり、全ての民族と全ての場所を意味します。神の目的はイスラエルだけでなく、全世界に及ぶということです。
それは、「人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるため」なのです。クロスを用いるのは単にイスラエルを救うためだけではなく、全ての人に、唯一の神を知らせるためです。そして、知るとは表面的な認識ではなく、神の本質を理解するという意味です。
そして最後に「 わたしは主である、わたしのほかに神はない」と繰り返しています。この自己宣言は、偶像の無力さと多神教的世界観への挑戦を意味します。
まとめると、神を知らない異邦人が救い主として登場する。しかし、それは神が前もって神の主権によって決めていたこであり、それは、異邦人を含む全ての人が神を知るようになるためであるということです。
3。なぜ信じない人を用いるのか?
神様が信じない者を用いるのは、私たちの高慢を砕くためです。
“なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、 この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。”
マタイによる福音書 8:11-12 口語訳
イスラエルにとって、救いは神の民であるイスラエルにこそ与えられるべきものであり、メシアは律法を守るユダヤ人の中から出るべきだという固定概念がありました。だから名誉ある「メシア」の称号が異邦人に与えられるのは、気分が悪いものです。しかしそれは神の主権を無視した傲慢です。イスラエルの傲慢な固定概念である選民思想は、イエスの時代にも色強く残っていました。
イエスは生まれてから死ぬまで、徹底してユダヤ人の高慢な固定概念を打ち砕こうとしました。メシアの誕生の知らせは、羊飼いの次に、ヘロデ王ではなく、東方から来た博士たちに与えられました(マタイ2:1−2)。ユダヤ人が大勢見ている中で、ローマの百人隊長を「これほどの信仰を見たことがない」と言いました、ユダヤ人よりも異邦人が先に神の国に入る可能性を示しました(マタイ8:10)。ユダヤ人でなくカナン人女性に「あなたの信仰は立派です」と誉めました(マタイ15:28)。会堂では、エリヤはユダヤの寡婦ではなくシドンの寡婦に、エリシャはユダヤの来病人ではなくシリヤのらい病人に送られたといって、人々を怒らせました(ルカ4:25−27)。
私たちはイスラエルのような傲慢を持っていないか確認する必要があります。クリスチャンだからといって、未信者の夫や友達をバカにしていないか?自分の方が経験が多いからといって、上から目線で人に教えようとしていないか?犯罪者を見て見下していないか?パリサイ人のように、人を慰めるのではなく、重荷を背負わせていないか?神様が私たちを用いないと感じるのなら、イスラエルやパリサイ人のような高慢のせいかもしれません。
そして、神様が信じない人を用いるのは、全ての人々が救われるようにするためです。
“しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。”
ローマ人への手紙 11:17-18 口語訳
イスラエルには選民思想や律法主義があり、異邦人は汚れた者と考えていました。本来はイスラエルを通して全の異邦人を救う計画でしたが、イスラエルがそれを理解できませんでした。エジプト、アッシリア、バビロン、ギリシャ、ローマと立て続けに大国による支配を受け続ければ、おかしな優越感と劣等感が出てくるのも仕方がない部分があるかもしれません。しかし、一番の問題はイスラエルが自分の義を追い求めたからです。それは高慢となり、神様の思いを間違って理解させるものになっていました。それは「私は大丈夫、よくやっている」と何度も言い聞かせる暗示的なものになっていたのです。その結果、イスラエルは切り取られ、救いが先に異邦人に行くようになったのです。
それは現代私たちにも同じことが言えます。パウロは野生のイスラエルが切り取られ、その根に異邦人の枝が差し込まれたと言っています。これは異邦人の救いはあくまでイスラエルの土台の上に成り立っているものだから誇ってはいけないというものです。私たち異邦人に先に救いが与えられたのは、私たちが偉いからではなく、私たちを通してイスラエルの人々も救われるようになるためです。神様はイスラエルを見捨てたわけではありません。しかし、世界はイスラエルをイエスキリストを殺した殺人者として迫害してきました。これはキリストの望むことではありません。
今の私たちはどうですか?自分の劣等感や優越感のせいで、誰かを見下していませんか?私の憎い相手も、神様が救いたい人であるいう事を忘れてはいけません。宣教は単なる責務ではなく、神様の優しい思いがあることを覚えておきましょう。
4。全てにおいて神の主権がある事を認めましょう。
“わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。”
ヨハネによる福音書 6:44 口語訳
大部分のイスラエルにとって自分の義を追い求めるあまり、神様の主権を無視してしまいました。だから、自分たちの想定を外れた事をすると、受け入れられないのです。その結果、神様は異邦人に対して働くことを決めたのです。
一部のイスラエルはそれを受け入れました。クロスを通して神様が働かれている事を認めた人々には神様が役目を与えました。ダニエルは晩年、クロス王に仕えました。イザヤ45章をクロスに見せた可能性が高いと言われています。そして神殿再建の命令に従って、総督ゼルバベルと祭司ヨシュアを始めとする一部のユダヤ人が、神殿再建のためにエルサレムに旅立ちました。時間はかかりましたが、神様の導きによってたくさんの反対勢力を乗り越えて神殿を再建することができました。
私たちも一部のイスラエルのように神様の主権を認めましょう。自分の義を求めないでください。自分の思い通りにならなくても、やけにならないでください。なぜなら神様が主権を持って、歴史を作っているからです。私たちは神様の主権に従うことで、神様の力を見ることができます。ユダヤ人の礼拝場にある帽子は、いつも自分ではなく、自分の上に権威があることを思い出させるためだそうです。私たちは自分ではなく、神様の主権を一番にしましょう。
5。まとめ
神様は私たちが想像もできないような未信者をも用いられます。それは私たちの高慢を砕くためであり、全ての人々が救われるためです。私たちは謙遜に神の主権による導きを受け入れ従いましょう。そうすることで、私たちは神の国の民としての使命を果たすことができます。
댓글0개