20250601日曜午後礼拝
聖書:イザヤ53:1−5
題目:真のメシアの姿
讃美:86、88
説教者:高曜翰 副牧師
“だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。”
イザヤ書 53:1-5 口語訳
1。杉原千畝(1900−1986)
杉原千畝は、第二次世界大戦中、リトアニアの領事館で務める外交官でした。ナチスの迫害から逃れようとするユダヤ人難民に通過ビザを発行し続けた人物です。ビザの発行をやめるよう外務省に命令されてもやめませんでした。領事館が閉鎖しても、駅のホームで、列車の窓からもビザを発行し続けました。そして多くのユダヤ人の命を救いました。なぜこんなことができたのでしょうか?
彼の心の中心には社会的成功ではなく、人の命を救う使命がありました。日本だけでなくナチスからも命を狙われる危険がありましたが、命令に従いませんでした。命令に従っていれば、外交官としての地位も将来も守れたでしょう。しかし、彼にとっては、人の命を救う使命の方が重要だったのです。
また、彼には自分が強くなる心ではなく、弱さに寄り添う心がありました。自分も危険の中にいながら、ナチスの迫害の恐怖と不安の中にある難民達に寄り添ったのです。彼は力のある側ではなく、弱い側に立つことを選びました。
彼は犠牲を覚悟しました。妻の幸子に「ここでこの人たちを見捨てたら、私は後悔する」と言いました。すると「あなたの信念に従ってください。私たちは共にいます」と、その覚悟を受け入れました。
結果的に戦後、千畝は外交官の地位を失い、苦しい生活を送りました。しかしその姿は人々の心を動かし続けています。2021年10月、エルサレム市で杉原スクエアと杉原パークの除幕式が行われ、2023年11月、静岡県沼津市で杉原夫妻の功績を讃える式典が行われました。今日は、千畝のように、私たちの心を今も動かし続けているイエスキリストの姿を一緒に見てみましょう。
2。真のメシアの姿
1節には「誰が我々の聞いたことを信じ得たか」とあります。預言者たちが語った神の救いの計画を、人々が信じなかったことを話しています。なぜなら人々が考えるメシアのイメージと神様が考えるメシアのイメージがかけ離れていたからです。そして、「主の腕は誰に現れたか」とあります。主の腕とはメシアの働きのことを指しますが、本当に現れたか疑問文になっています。確かに信じる者の前に現れたのですが、それを見ても信じる人がほとんどいなかったことを説明しています。なぜ信じることができなかったのでしょうか?
2節にはメシアの身体的欠陥が書かれています。「彼は主の前に若木のように、乾いた土から出る根のように育った」とあります。通常は大木や潤った土地にある根に目が向きます。しかしメシアは弱い若木のように、枯れてしまうような根のよう現れ、簡単に見過ごされてしまうような状態で来たことを説明しています。実際、イエスはナザレという田舎の貧しい家庭環境で生まれました。そして「彼には我々の見るべき姿がなく、威厳もなく、慕うべき美しさもない」と続いています。英語で言うとno beauty, no majesty, nothing in his appearance we should desire himです。美しさも威厳も期待できそうな外見も、何もないと言う意味です。人々は、ダビデのような、またはクロスのような英雄をメシアの姿として想像しました。しかし実際はそうではないと言うことをイザヤ預言者は教えています。
3節にはメシアの社会的欠陥が書かれています。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」とあります。メシアの人生は華やかさを味わうではなく、むしろ痛みや苦しみを味わう人生でした。実際、イエスは、大工の息子として軽視され、王族や知識人ではなく、病人や罪人を友として生きました。そして「顔を覆って忌み嫌われる者のように侮られ、我々も彼を尊ばなかった」とあります。人々に好かれるよりも嫌われ者として行きました。実際、人々はイエスを大食漢、酒飲みと評価し、後には弟子たちも顔を背けて逃げて行きました。
4節にはその理由が書かれています。「彼は我々の病を負い、我々の悲しみになった」とあります。メシアの欠陥は、メシア自身の問題ではなく、私たちの悲しみを身代わりに背負った結果だと言うのです。しかし、「然るに、我々は思った、彼は打たれ、神に叩かれ、苦しめられたのだと」とあります。人々はメシアの身体的、社会的な欠陥が彼自身にあると考えたのです。なぜなら、神に愛される正しい人なら、成功を収めるはずだからです。人々はメシアを誤解しました。実際、人々はイエスを誤解し、十字架にかけました。
5節には「しかし彼は我々のとがのために傷つけられ、我々の不義のために砕かれた」とあります。メシアは、我々の身代わりとして、肉体的にも精神的にも破壊されたとあります。原因は、メシアではなく、私たちの罪です。実際、イエスは長い裁判と十字架の上で精神的にも肉体的にも苦し見ました。そして「彼は自ら懲らしめを受け、我々に平安を与え、その傷によって、我々は癒された」とあります。そのメシアは、懲らしめを代わりに受けることで、人々に平安を与え、その傷を代わりに受けることで、人々を癒したのということです。実際、聖書は私達がイエスキリストの十字架によって救われたことを教えています。
実際のメシアの姿を見てどのように感じましたか?同じメシアの称号を受けながらも、クロスとは全く正反対の姿を見ることができます。この世の視点では、クロスは当時最大の大帝国を築いた成功者であり、イエスは十字架刑にかかった失敗者です。しかし、神の視点では違います。クロスは、自身の軍事力と政治力でこの世の国々に勝利した勝利者ですが、イエスは十字架の犠牲と復活によって、罪と死に勝利したより偉大な勝利者です。そして、クロスの解放は一時的で限られた場所だけですが、イエスの解放は永遠で全世界が対象です。より大きな救いをもたらす真のメシアの姿は、力で人を解放する姿ではなく、犠牲で私たちを解放する姿なのです。
3。真のメシアに習おう
今日の本文の真のメシアの姿から、真の正しさとは、この世の基準ではなく、神様の基準に合わせることだということがわかります。私たちは何を基準にして生きていますか?
イエスは外見も社会的地位も、魅力的、立派、憧れる存在とは正反対でした。神様の求める基準とは、目に見えるものではなく、目に見えないところにあります。私たちが正しく生きるためには、外見や社会的地位ではなく、心の中の、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が必要なのです。目に見える物に惑わされないように願います。
次に、真の強さとは、自分が強くなることではなく、人の弱さを知ることにあります。私たちは何を知るべきでしょうか?イエスはこの世で生き抜くための知恵ではなく、人の悲しみや苦しみを知りました。人の弱さに神様の力が働きます。私たちは、弱さを隠して強いふりをするのではなく、神様が働かれるように、弱さを受け入れて下さい。私たちが本当の意味で強く生きるには、人を見て偉そうにするのではなく、人を見て哀れに思う心が必要なのです。
そして、真の救いは社会的成功ではなく、犠牲の愛から来ることがわかります。私たちは何を求めて生きていますか?イエスは祝福や成功、繁栄を求めず、私たちが救われることを最後まで望みながら生きて行きました。神様を愛し隣人を愛するのがキリスト者です。仮に、成功して自信を持つようになっても、人の痛みを知らず、犠牲を払えないならキリストとは無関係の人生になってしまいます。私たちが本当の意味で人を救いたいのであれば、目に見える成功を追い求めるのではなく、キリストのように生きることが必要なのです。
4。まとめ
真のメシアは真の正しさと真の強さを持ち、真の救いのためにやってきました。その姿が、私たちがどのように生きるべきかを教えています。目に見えるこの世の基準ではなく、目に見えない神様の基準を選択して下さい。自分が強くなることではなく、人の弱さを知ることを選択して下さい。そして、社会的成功ではなく、犠牲の愛を選択して下さい。私たちも真のメシアであるイエスのように生きていきましょう。
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