20250613日曜午後礼拝
聖書:イザヤ66:1−4
題目:仮面の信仰
讃美:436、439
説教者:高曜翰 副牧師
“主はこう言われる、「天はわが位、地はわが足台である。あなたがたはわたしのためにどんな家を/建てようとするのか。またどんな所がわが休み所となるのか」。 主は言われる、「わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。 牛をほふる者は、また人を殺す者、小羊を犠牲とする者は、また犬をくびり殺す者、供え物をささげる者は、また豚の血をささげる者、乳香を記念としてささげる者は、また偶像をほめる者である。これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを楽しむ。 わたしもまた彼らのために悩みを選び、彼らの恐れるところのものを彼らに臨ませる。これは、わたしが呼んだときに答える者なく、わたしが語ったときに聞くことをせず、わたしの目に悪い事を行い、わたしの好まなかった事を選んだからである」。”
イザヤ書 66:1-4 口語訳
2. 仮面夫婦
「仮面夫婦」とは、一見普通の夫婦のように見えても、実際には心が離れており、愛や信頼が失われた関係を指します。浮気や不倫が発覚した後、子どもの存在や経済的事情、社会的な立場を考慮して離婚せずに続けるケースも多くあります。
日本では、およそ20%の夫婦が仮面夫婦とも言われています。確かなのは、誰も最初から仮面夫婦になろうとは思っていないということです。会話も関心もなく、頼ることもできない関係を、表向きだけ取り繕い続けることは、知らず知らずのうちに大きな心の傷を生み出します。
これは、信仰生活にも似ています。礼拝や奉仕に熱心に見えても、実際には心が神様から遠く離れている信仰者がいます。人の目には信仰深く映っていても、見えないところでは祈らず、みことばにも従おうとせず、特に献金や悔い改めには過剰に反応します。
こうした「見せかけ」の信仰は、神様との信頼関係が破綻しており、仮面夫婦のように、心に深い傷をもたらします。さらに厄介なのは、自分自身がその状態に気づいていないことです。
2. 本文解説
1節
ここでは、神殿に過剰な信頼を置く民に対する神様の反応が語られています。民は、神ご自身ではなく、神殿という「形」に信頼を寄せていました。神様そのものではなく、神様から来る祝福だけに関心があったのです。
例えるなら、夫には関心を持たず、夫がもたらす給料や地位だけを求める妻のような状態です。神様のためだと語りながら、実際には心が伴っていない義務的な信仰生活に、神様は悲しみと怒りを覚えられます。
2節
神様が望まれるのは、立派な神殿でも、完璧な奉仕でもありません。へりくだり、心から悔い改め、神の言葉に恐れおののく者をこそ、神様は顧みてくださるのです。
完全な行いではなく、その行いの背後にある心が神様にとって重要です。夫婦関係においても、完璧な家事よりも、その家事を通して見える「愛」が喜びを与えるのと同じです。
3節
ここでは、形だけの礼拝がいかに神様の御心から外れているかが明らかにされます。牛や羊の犠牲、供え物や乳香など、外見上は正しい礼拝行為であっても、神様はそれを忌み嫌われました。なぜなら、心が伴っていないからです。
人に見せるためだけの、心のない贈り物を誰が喜ぶでしょうか? 神様もまた、偽りの礼拝には心を動かされません。
4節
そして、神様はこのような形だけの礼拝に対して、厳しい裁きを下されます。神様が語っても耳を傾けず、呼びかけても応えようとしない民に、神様は悩みと恐れをもって報いられるのです。
夫が辞めるように繰り返し訴えても、妻が勝手な行動を止めないならば、夫が行動を起こすのは当然でしょう。同じように、神様もご自身の権威をもって、正しい裁きをなされるのです。
当時のイスラエルの民は、関係が破綻していることに気づいていませんでした。「立派な神殿も犠牲もあるのに、神様はなぜ満足されないのか?」という状態です。これは仮面夫婦における、「生活には困らせていないのに、なぜ感謝しないのか?」「会話はしているのに、なぜ伝わらないのか?」という感覚と同じです。
では、神様との関係を回復するには、どうすればよいのでしょうか?
3. 適用
① 自分の心を砕き、へりくだりましょう。
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。」(ルカ18:13)
神様は、自信満々な人ではなく、悩み、砕かれ、謙遜な者を愛されます。神様なしでは生きられないと気づく人こそ、神様に受け入れられるのです。
信仰生活が正しくなるためには、まず自分の心が砕かれなければなりません。夫婦間の問題も、「自分はこれだけやっているのに」という高慢さが原因になることが多いのです。
もし、自ら心を砕けなくても、神様は私たちを見捨てず、必要に応じて裁きを通して徹底的に砕いてくださいます。そして、その時こそ、悔い改めのチャンスです。悔い改めるなら、必ず回復が与えられます。
② 神様の言葉に聞き従いましょう。
「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネ10:27)
神様は、自分の思いや判断に従って生きる人ではなく、神の声に耳を傾け、従おうとする者を愛されます。
私たちは羊のように弱く、自分勝手な道を選ぶと、簡単に迷い、傷ついてしまいます。だからこそ、神様の声にこそ耳を傾ける必要があります。
そして、他人の言葉に価値を置くには、自分を砕くことが不可欠です。そうでなければ、「自分の方が正しい」という思いにとらわれ、相手の言葉を歪めて受け取ってしまいます。
③ 神様が与える平安を受け取りましょう。
「ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。…」(マルコ4:38)
イエス様は、嵐の中でも眠るほどの平安を持っておられました。それは、環境に左右されない神の平安です。
夫婦の間でも、たとえ経済的な困難があっても、信頼関係があれば乗り越えられます。問題の本質は「お金」ではなく、「関係」なのです。
4. まとめ
今日の御言葉を通して、神様が表面的な礼拝を忌み嫌われることを学びました。表面的な信仰では、真の平安は得られません。
真の信仰生活を取り戻し、平安を得るためには、自分の心を砕いてへりくだり、神様の言葉に従うことです。
夫婦関係においても、自己主張ではなく、相手の言葉に価値を置くときに、信頼関係が築かれ、真の平安が与えられます。
信仰生活の中で平安が感じられない時には、自分の心を砕き、神様の声に耳を傾けてください。そうすれば、どんな嵐の中でも揺るがされない「真のシャローム」が与えられるのです。
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