20260301日曜日本語礼拝
聖書:ヨハネ9:1−3
題目:シロアムに行こう
賛美:35、482、488
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
“イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。”
ヨハネによる福音書 9:1-3 口語訳
1.山登りの例 ― 「なぜ」ではなく「なに」を考える
山で遭難した人は、まず「なぜ道に迷ったのか」「どこで間違えたのか」と考えがちです。そして、失敗を取り戻そうとして無理に低い場所へ降りようとします。その結果、救助の難しい場所で動けなくなります。これは過去に縛られ、向かうべき道が見えなくなった結果です。
遭難から抜け出すためには、「なぜ」ではなく「なにをすればよいか」を考えることが大切です。低い場所ではなく、見晴らしのよい高い場所を目指して登ります。そうすることで救助を受けやすくなります。未来に目を向けて行動した結果です。
「なぜ」を振り返ることは大切ですが、それは救助された後にすることです。そしてその「なぜ」は、未来に目を向けたもので、再発防止が目的です。遭難の中では、「なぜ迷ったのか」ではなく、「なにをするのか」が大切なのです。
2.本文解説
(1)生まれつきの盲人
弟子たちはイエスに尋ねました。「この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したのですか。本人ですか、それとも両親ですか」。彼らの目的は、原因を探し、責任の所在を明らかにし、苦しみの犯人を見つけることでした。当時の背景には、苦しみは神の罰であり、苦しんでいる人は罪人であるという考えがありました。多くの人は、「なぜ苦しみが起きたのか」が分かれば心が落ち着くと思っています。説明がつけば安心できると考える心理があります。
しかしイエスは答えました。「本人が罪を犯したのでもなく、また両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、この人の上に現れるためである」。イエスは直接的に質問に答えませんでした。大切なのは、苦難の理由以上に、神が何をなさるかなのです。信仰とは、過去を分析することではなく、未来の救いを見ることです。
多くの人は過去の失敗や傷に縛られています。しかしイエスは、人に後ろを振り返らせるのではなく、前を向かせて歩ませます。悔い改めとは、後悔して過去に縛られることではなく、前に進むための準備です。苦しみの中では、意味を追求するよりも、神が準備された未来を見ることが重要なのです。
(2)盲人への癒し
イエスは唾で泥を作り、盲人の目に塗って言われました。「シロアムに行って洗いなさい」。泥を目に塗る行為は、一般的な治療法ではなく、合理的とも言えませんでした。また、シロアムはベデスダのように癒しを象徴する池として有名だったわけではありません。シロアムの池は、「使わされた」という意味のある、元々水源確保のために作られたただの池です。
盲人が「イエスという方が」と言っていたことから、イエスをよく知らなかった可能性があります(9:11)。しかし盲人は、理由を尋ねることも、不満を言うこともなく、言われた通りに行動しました。そして、実際に行くと目が見えるようになりました。ここには奇跡の理由があります。
イエスの唾にも、泥にも、池そのものにも力はありません。また、盲人自身の努力によるものでもありません。この癒しは、従順な信仰によるものでした。信仰とは、理解してから歩くものではなく、歩きながら理解するものです。
(3)癒された盲人のその後
癒された盲人は、神のみわざの証人になりました。癒されて終わったのではありません。人々の前でイエスの働きを語る存在になりました。それまでの人生は、人々から慈悲を受ける人生でしたが、福音を与える人生へと変えられました。
さらに、肉体の目だけではなく、霊的な目も開かれました。学問がなくても、パリサイ人と対等に論じ合いました。両親から見捨てられ、会堂から追い出され、共同体から切り離され、生命の危機に直面しました。それでも彼は後悔せず、「主よ、信じます」と告白し、イエスを信じる道を選びました。持つものがなくても、未来を恐れませんでした。霊的な目が開かれたからです。
未来を恐れないためには、神が何をなさるかを見る霊的な目が必要です。そしてその目は神様が送った光に従うことによって開かれます。イエスは「わたしは、この世にいる間は世の光である(9:5)」と言いました。神様から遣わされたイエスに従うことが、霊的な目が開かれるための大切な一歩なのです。
つまり、シロアムに行くとは、遣わされた光であるイエスに従うことです。この盲人は盲目的に見えるかもしれませんが、イエスに従うことによって物理的な目だけではなく霊的な目が開かれたのです。そしてその信仰は揺れ動きませんでした。
3.適用
(1)「なぜ」から「なに」へ視点を変えよう
パリサイ人は「なぜ」に縛られていました。5章でもベデスダの足なえが癒された時に安息日を怪我したと怒り、今回の9章でも盲人の癒しを安息日違反だと怒りました。彼らの関心は盲人の癒しやイエスの奇跡ではなく、自分たちの権威が守られることでした。だから「なぜ安息日にしたのか」と怒っているのです。
一方、イエスは未来に目を向けています。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)。イエスの関心は、自分の過去の正当性ではありません。神が今何をしておられるか、これから何を現そうとしておられるかです。
信仰者も同じです。問題が起きると人はまず「なぜ」と問います。安心するために、確定した理由を求めるからです。「なぜ」を考えることは、良い事です。しかし、「なぜ」にとどまってしまうことは良いことではありません。信仰者は最終的に「何が起きるのか」に目を向けます。信仰とは、「なぜ起きたのか」ではなく、「神は今何をしておられるのか」を問うことです。
(2)「過去」から「未来」へ視点を変えよう
イスラエルの民は荒野で何度も「昔の方がよかった」とつぶやきました。神が示す未来の約束よりも、過去の安心に執着しました。その結果、約束の地は見えなくなり、11日で行ける道のりが40年に伸びました。神は過去を否定しているのではありません。しかし過去は、そこに住むために与えられたものではありません。
神は言われました。「あなたがたは、先のことを思い出してはならない。見よ、わたしは新しいことをする」(イザヤ43:18–19)。神は出エジプトの過去ではなく、出バビロンの未来を見せようとされています。成功や失敗に固執すると、人は過去に住んでしまいます。未来のことよりも過去のことばかり語るようになります。過去はすでに終わった世界であり、制御できるので安心を与えるからです。
しかし信仰者は過去を通して未来を見る人です。信仰とは、過去に住むことではなく、未来に向かって神と共に歩むことです。
(3)シロアムへ行こう ― 霊的な目が開かれるために
癒された盲人は、学問も地位もありませんでした。両親から見捨てられ、共同体からも捨てられました。それでも後悔することなく、イエスを礼拝する道を選びました。持っているものがなくても、未来を恐れませんでした。霊的な目が開かれたからです。
未来を見るためには、神が何をなさるかを見る霊的な目が必要です。この世の光はイエスです。シロアムに行くとは、遣わされたイエスに従うことです。イエスに従うことで霊的な目が開かれます。そして過去の「なぜ」から未来の「なに」へと目を向けることができます。
希望を持つことができない人は、山で遭難しているのに救助を呼ばず、自力で降りようとする人のようです。それは過信や失敗を認めたくない心、人に頼ることへの恥ずかしさから生まれます。しかし、すべてを諦めて遣わされた救助隊に従うために、山を登る人には希望があります。同じように、遣わされたイエスに従う人は希望を持つことができます。盲人は、イエスに従うことで多くを失いましたが、希望が生まれました。霊的な光を見たからです。
4.まとめ
私たちは問題が起こると、まず「なぜ」と問います。無理にでも原因を探して安心しようとします。しかしイエスは言われました。「誰が罪を犯したのか」ではありません。「神のみわざが現れるためです」。
信仰とは、過去の理由を解き明かすことではなく、神がこれから何をなさるかを見ることです。盲人は理由を求めませんでした。説明も求めませんでした。ただ言われた通りにシロアムへ行きました。そして目が開かれました。
今日、私たちも問われています。過去にとどまりますか。それともシロアムへ行きますか。神は今も働いておられます。だから「なぜ」ではなく、「主よ、今あなたは何をなさいますか」と祈りながら、一歩踏み出しましょう。


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