20260301日曜韓国語礼拝
聖書:エゼキエル7:2-3
題目:終わりに備えよう
賛美:210、305
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
“「人の子よ、イスラエルの地の終りについて主はこう言われる、この国の四方の境に終りが来た。 いま、あなたの終りが来た。わたしはわが怒りをあなたに漏らし、あなたの行いに従って、あなたをさばき、あなたのもろもろの憎むべき物のためにあなたを罰する。”
エゼキエル書 7:2-3 口語訳
1。なぜ「地」なのか?
エゼキエルは6章で「山」への裁きを語りました。しかし今回の7章では「地」への裁きを語ることになります。まだ、人に向かって直接語ることができません。なぜ「地」なのでしょうか?
「山」への裁きは、神様との関係を壊した「原因」である偶像崇拝への裁きです。そして、「地」への裁きは、神様との関係が壊れた「結果」である不正に満ちた社会への裁きと言えます。イスラエルにとって「地」は特別な意味を持っていました。それは契約の印であり、神の祝福の象徴でした。ところが、契約違反によって神様との関係が切れたため、その地に対して「終わり」が宣言されたのです。
この関係は、夫婦と家庭の関係に似ています。夫婦の関係が壊れると、家庭も壊れるようになります。同様に、神様との関係が崩れると、その祝福も崩れてしまうのです。今日のお話は、神様との関係が崩れた私たちには必ず終わりの日が来ることを教えています。
2.本文解説
(1)「この国の四方の境に終わりが来た。いま、あなたの終わりが来た。」
この預言は、前597年の第一次バビロン捕囚の後に語られました。エルサレムはまだ完全には滅びておらず、人々は「神殿があるから大丈夫」「ダビデ契約がある」「すぐに回復する」。しかし神様の宣言は違いました。この国の隅々まで終わる、と宣言しています。人々は神様との関係が終わっていないと思い込んでいますが、もうすでに関係は終わりを迎えていたのです。その結果、「地」にも終わりが来るのです。それは単なるバビロンによる軍事的な敗北ではありません。霊的崩壊の結果としての終わりなのです。そしてそれは変えられることのない確定事項なのです。
(2)これから起こること
この後、次のようなことが預言されています。
5〜9節:災いが続いて起こります。逃げ場はありません。
10〜13節:市場が崩壊します。買う者も売る者も喜べません。経済が無力化されます。
14〜18節:軍事力も無力になります。外には剣があり、内には疫病と飢饉があります。
19節:銀は巷に捨てられ、金は芥のようになります。富は救いになりません。
23〜27節:王も指導者も希望を失います。人間が頼っていたすべてが崩壊します。
(3)裁きの後に知ること
神様は、「彼らは、わたしが主であることを知る」と言われました。これは、神のさばきを通して神を認識するという意味も含まれています。さばきは滅びそのものを目的とするのではなく、人々が神に立ち返ることを願う神の警告でもあります。しかし、同時に、さばきが進む中で悔い改めの機会が閉じられる悲劇も示されています。ですから私たちは、裁きの後に続きがあると安心するのではなく、終わりが来る前に主を知ることの大切さを心に留めなければなりません。
3.適用
①終わりは必ず来ます
“そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、”
ヘブル人への手紙 9:27 口語訳
イスラエルの人々は、死について深く考えず、死なないかのように生きていました。富や力、人間関係に頼り続けましたが、神の警告を受けても悔い改めることなく歩んだ結果、神を知る時が遅れてしまいました。
私たちも同じ誘惑の中にいます。金銭を追い求める生活、快楽に依存する生活、依存的な生き方。終わりが近づいても止めることができなくなる危険があります。
私たちは、いつ死ぬかは分かりません。しかし終わりは必ず来ます。終わりが来てから主を知ろうとしても遅くならないように、恵みの時に主を求めることが大切です
②生きている間に福音によって主を知りましょう
“永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。”
ヨハネによる福音書 17:3 口語訳
イスラエルの人々が本当に知りたかったのは、裁きは来るのか、捕囚はいつ終わるのか、エルサレムは守られるのか、といったことでした。また、私たちもお金を稼ぐ方法、有名になる方法、自分の思い通りに生きる方法を求めがちです。しかし神様は、私たちのすべての疑問に対して同じ方法で答えられるとは限りません。
神様が私たちに最も知ってほしいのは、ご自分についてです。なぜなら、この世の知識も大切ですが、それだけでは人の魂を本当に満たすことはできないからです。大切なのは、生きている間に主を知ることです。
ここに、一度知って終わりではないことを加えます。キリストを知るとは、単なる知識として理解することではなく、関係を続けることです。神様を知るとは、生きている間、そして人生の歩みの中で、主と共に歩み続けることを意味します。私たちは一度信仰を持ったら終わりではなく、日々御言葉によって養われ、祈りによって主との関係を深めていく必要があります。
③今持っているものを主との関係のために用いましょう
“またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。”
ルカによる福音書 16:9 口語訳
「不正の富を用いてでも」という言葉は、不正そのものを勧めているのではなく、この世の資源を神との関係を築くために用いるように教えていると理解されています。「知る」ということは、単なる知識を持つことではなく、神様との関係を持ち続けることを意味します。私たちは生活の中で富を求めることがありますが、同時に神様を求め続ける信仰を忘れてはなりません。
富はやがて消え去るものですが、神様は永遠のお方です。そして神様は、私たちを永遠の住まいに迎えてくださるお方です。それにもかかわらず、やがて消えてしまう富のために、永遠なる神様から離れてしまうなら、本来の意味を失ってしまいます。イエス様は、永遠なる神様に近づくために、やがて消えてしまう富を用いる方が良いと教えておられます。
私たちに与えられた富には意味があります。その一つは、神様を知るために用いることです。私たちには管理が委ねられていますが、それをどのような目的のために用いるかが重要です。食事や生活の手段も、自分の満足のためだけではなく、福音を伝え、人を慰め、愛を実践するために用いるなら、神様は喜んで喜ばれるでしょう。
④具体例:ジョン・ニュートン(1725–1807)
彼はかつて奴隷貿易に関わる船員であり、のちに船長となりました。彼はお金を稼ぐ方法、名誉を得る方法、人を従わせる方法を知っていました。しかし22歳のとき、嵐に遭い死を覚悟した彼は、「主よ、あわれんでください」と叫びました。奇跡的に助けられた彼は、その出来事を通して聖書を読むようになり、神を求め始めました。
彼の人生は劇的に一瞬で変えられたわけではありませんでした。信仰は数年かけて少しずつ深められていきました。彼を変えたのは恐怖ではなく神の恵みでした。彼は、罰を恐れて神を知ったのではなく、すでに赦されていることに驚き、恵みの中で神を知る人生へと導かれました。
後に彼は英国国教会の牧師となり、奴隷貿易廃止運動を霊的な面から支えました。また多くの賛美歌を作詞し、その中でも最もよく知られているのが「Amazing Grace」です。その歌詞には、「なんという驚くべき恵み。こんな惨めな私を救ってくださった」という彼の信仰告白が表れています。
ジョン・ニュートンは、人生を積極的に変えようとしたわけでも、富や名声を追い求めたわけでもありませんでした。しかし、救いの恵みの中に生きる人生を経験しました。私たちもまた、富や名声、快楽を人生の中心に置くのではなく、「主を知ること」に焦点を合わせて歩むとき、ニュートン以上に神の恵みを喜び、神との関係の中で満たされた人生を生きることができます。
4.まとめ
終わりは避けることができません。しかし、終わり方は選ぶことができます。恐れの中で主を知る最後を迎えるのか、それとも福音によって救いの主を喜びながら歩む最後を迎えるのかが問われています。
人々は様々な方法で死の現実から逃げようとしますが、逃げることはできません。それならば、残された人生を、富や快楽ではなく、主を知ることに用いましょう。聖書は神様との関係の中で生きる人生こそ、最も祝福された人生だと教えています。
主と共に歩み、救いの恵みを喜びながら生きる残りの人生を送りましょう。


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