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ユダに差し出された手(ヨハネ13:21-27)
고요한 2026-03-28 추천 0 댓글 0 조회 22

20260329日曜日本語礼拝

聖書:ヨハネ13:21-27

題目:ユダに差し出された手

賛美:42、150、151

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

「イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。 弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。 弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。 そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。 その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、 イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。 この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭13‬:‭21‬-‭27‬ 口語訳‬

1。ユダとは?

 ユダという名前は「裏切り者」の代名詞として、聖書をよく知らない人々の間でも広く知れ渡っています。他に密告者やスパイという意味合いでも使われています。歴史的に名前のイメージが強烈すぎて、西洋では人の名前には使われなくなりました。中世ヨーロッパでは、さらに強調されて、強欲の象徴、悪魔に支配された人間、地獄で最も重い罰を受ける者として描かれました。特に有名なのが、ダンテの神曲です。地獄の最深部でサタンに永遠に噛まれ続ける存在として描かれています。ユダは人類最悪の裏切り者として固定されました。

 また一部の間では、最も理解していた弟子として評価されています。その理由は、1970年代にエジプトで発見されたユダの福音書です。2世紀ごろに描かれたと考えられ、内容は「イエスとユダの秘密の会話」です。この文書では、ユダだけが真理を理解し、イエスの指示に従って、必要悪を実行した英雄のように描かれているのです。しかし、ユダの福音書は使徒性がなく、実際のユダが書いた証拠もない創作物だということがわかっています。何より、知識による救いを主張するグノーシス主義の色が強く、他の聖書とは根本的に教えが違います。

 世間ではユダに対して、「最悪の裏切り者」や「必要悪を実行した英雄」など両極端な評価を下していますが、聖書ではどちらも違います。聖書ではユダを、「愛を受けながらも、それを拒んだ可哀想な罪人」として描かれています。それはイエスの態度から理解することができます。棕梠主日の今日、私たちは王として迎えられたイエスの深い愛を、ユダを通して学んでみましょう。

2。本文解説

裏切りについての公表(21節)

 最後の晩餐の場面になります。イエスはこの時、心が騒ぎました。内面で深い動揺があったのです。なぜなら、イエスはすでに誰が裏切るのかを知っていたからです。しかし、怒って叱りつけるのではなく、この場面で心を痛め、動揺しているのです。知っている事実に対して無感動なのでもありません。愛していた弟子が罪に落ちていくことへの深い悲しみ、そして裏切りの現実に対する苦しみを表しているのです。イエスの人間性を見ることができます。

 しかしその中でもイエスは、「よくよく(アーメン、アーメン)あなたがたに言っておく」と厳かに語られます。どんなに衝撃的な状況の中でも、愛と忍耐をもって語られるお方であることがわかります。

 そして「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」とみんなの前で発言しました。しかし、これはユダを懲らしめるための公開処刑をするためではありません。わざわざ弟子たちが集まった場所で言うのは、第一に、すべてを知っていたことの証明のためです(13:19)。第二に、弟子たちに自己吟味をさせるためでした(マタイ26:22)。実際、弟子たちは「まさか私ではないでしょう」と、自分自身を顧みます。そして同時に、これはユダにとっても自分の心を振り返る最後の機会でもあったのです。ユダには何度も悔い改めの機会が与えられていました。

弟子たちの困惑(22–25節)

 この言葉を聞いた弟子たちは、互いに顔を見合わせ、非常に驚きました。誰のことなのか、まったく見当がつかなかったのです。その場の雰囲気は、「あの人だろう」と特定できるものではなく、誰であってもおかしくないような状況でした。それほどまでに、ユダは巧妙に自分の本心を隠していたのです。ユダは3年間イエスに従い、しかも会計係として信頼されており、弟子たちはユダの本心を知ることができませんでした。しかし、イエスだけが真実をご存知だったのです。

 23節では、「イエスが愛しておられた弟子」、すなわちヨハネが登場します。彼はイエスのすぐそばで、食卓に横になっていました。24節では、ペテロがヨハネに身振りで合図を送り、「誰のことか聞いてほしい」と促します。ペテロはイエスから少し離れた位置におり、直接聞くことができなかったのです。25節では、ヨハネがイエスの胸に寄りかかり、「主よ、それは誰ですか」と静かに尋ねます。このやり取りも、他の弟子たちには気づかれていなかった可能性があります。

 ここで重要なのは、この一連のやり取りが、他の弟子たちにはあまり気づかれない形で進んでいるということです。つまりイエスは、ユダを公に暴露するのではなく、悔い改めのための猶予を残しておられたのです。

イエスの愛の行動(26節)

 イエスは答えて言われます。「わたしがパン切れを浸して与える者がそれだ。」当時の食事では、パンをスープや葡萄酒に浸して食べるのが一般的でした。そして主人が自らそれを取って誰かに与える行為は、単なる動作ではなく、特別な愛と親しみを示すしるしでした。それは言い換えるなら、「あなたは大切な人です」という表現です。現代で言えば、自分の箸で取り分けてあげるような、非常に親密な行為です。

 そのパンを、イエスはイスカリオテのユダに渡されました。ここに驚くべきことがあります。イエスはユダの正体を暴露するどころか、むしろ特別な愛をもって接しておられるのです。もしこれが断罪の場であれば、パンを投げつけてもおかしくありません。しかしイエスはそうされませんでした。これは、ユダに対する悔い改めの最後の機会だったのです。

霊的な戦い(27節)

 その時、サタンがユダの中に入りました。しかしこれは突然の出来事ではありません。すでに13章2節の時点で、サタンはユダの心に働きかけていました。つまり人は、罪を繰り返す中で心が徐々に固くなり、やがて決定的な状態に至るのです。ここで誤解してはならないのは、神がご自身の計画のためにユダを利用したということではありません。ユダ自身がその選択を積み重ねた結果として、サタンに心を明け渡したのです。

 その上でイエスは、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と言われました。これは裏切りを止めなかったということです。イエスはすべてを知った上で、それを進ませておられます。しかしこれは単なる放任ではありません。むしろ、神のご計画の中で時を進めておられるのです。本来、ユダヤ人指導者たちはイエスの逮捕を過越の祭りの後にしようとしていました。しかしイエスは、過越の祭りの間に死ななければなりませんでした。つまりイエスのこの言葉によって、ユダや指導者たちの計画さえも、神のご計画のタイミングに従わされていくのです。

 ユダはパン切れを受け取ると、外に出て行きました。それは単に部屋を出たということではなく、光の食卓から闇の中へと自ら進んでいったことを意味します。しかし他の弟子たちは、ユダが裏切り者であることに気づきませんでした。「祭りのために必要なものを買いに行ったのだろう」「貧しい人々に施しをするのだろう」と考えていたのです。ユダは最後まで、自分の本性を見せることなく出て行きました。ユダは愛されながらも、その愛を拒絶して離れていいきました。一方で、。裏切られることを知りながらも、最後まで愛し続けるキリストの姿を私たちは見ることができます。

3。適用

神の計画は誰にも止められない

 この場面からまず分かることは、神のご計画は誰にも止めることができないということです。実は、ユダヤ人指導者たちは、イエスを過越の祭りの後に捕らえようと考えていました。しかしユダの行動によって、その計画を早めざるを得ませんでした。なぜでしょうか。それは、神のご計画がすでに定められていたからです。イエスは、過越の時に十字架にかからなければならなかったのです。一部の人は、ユダが悔い改めたら、十字架の計画がなくなっていたのでは?と考えますが、そうではありません。ユダが悔い改めたなら、神様は喜ばれ、神様の計画は違う形で進んでいたでしょう。

 同じように、私たちの時代においても、神は確かに働いておられます。人の思いや計画がどうであっても、神のご計画は今も確実に進み続けているのです。それは大阪中央教会も同じです。お金がないから、人がいないから、環境が悪いからではなく、神様が大阪中央教会を通して持っている計画が私たちを通して進んでいます。それは私たち個人も同じです。信仰があるなしに関わらず、私たちに神様の計画があることを信じてください。

その中で、イエスは今も手を差し伸べておられる

 その神の大きなご計画の中で、もう一つ大切なことがあります。それは、イエスが最後まで手を差し伸べているということです。イエスはユダに対して、最後の瞬間まで愛をもって接しました。パンを渡すという親密な行為を通して、「あなたは大切な存在だ」と示したのです。イエスは最後の最後まで、自分で間違いに気付き、戻ってくることを待っていました。

 そしてそれは、今の私たちに対しても同じです。イエスは今も、私たちに手を差し伸べておられます。それは、人を通して、良心を通して、環境を通して、私たちに語りかけておられるのです。そしてイエスは、無理やり暴き、「仕方なく認めさせる」のではなく、私たちが自ら気づき、悔い改めることを待っておられるのです。他のところではなく、大阪中央教会に来た皆様にも、偶然ではなく、神様が手を差し伸べておられるということを信じてください。

だから今、その手を受け入れよう

 だからこそ、私たちは決断しなければなりません。その差し伸べられている手を、今、受け入れるのかどうか。ユダは、その手を受け取りながらも、最終的には拒絶しました。そして、自ら闇の中へと出て行きました。私たちも同じように、神の招きを感じながら、

「また今度」「まだ大丈夫」と先延ばしにしてしまうことがあります。

 しかし聖書が示しているのはこうです。今が、最も良いタイミングであるということです。神の愛を感じているその時こそ、心がまだ柔らかいその時こそ、応答すべき時なのです。今までユダのように何度も拒絶してきたから、今更…と考える必要はありません。イエス様はユダのように何度も拒絶した相手にも、何度でも手を差し伸べてくださいます。しかしそれも限りがあります。今目の前に差し伸べられている手があるのなら、今、つかんでください。今が一番の、そして最後の機会だと信じてください。

4。まとめ 

 神のご計画は、誰にも止めることはできません。その中でイエスは、裏切りを知りながらも、最後まで愛の手を差し伸べておられます。その手は今も、私たち一人ひとりに向けられています。しかし、ユダのように、その愛を拒むのではなく、先延ばしにせず、今こそイエスの愛に応えましょう。 

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