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臨在を失うこと(エゼキエル10:18-19)
고요한 2026-03-28 추천 0 댓글 0 조회 24

20260329日曜韓国語礼拝

聖書:エゼキエル10:18-19

題目:臨在を失うこと

賛美:143、154

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

「時に主の栄光が宮の敷居から出て行って、ケルビムの上に立った。 するとケルビムは翼をあげて、わたしの目の前で、地からのぼった。その出て行く時、輪もまたこれと共にあり、主の宮の東の門の入口の所へ行って止まった。イスラエルの神の栄光がその上にあった。」

‭‭エゼキエル書‬ ‭10‬:‭18‬-‭19‬ 口語訳‬

1。バビロンの恐ろしさ

 エゼキエル10章の背景には、バビロンの支配があります。興味深いことに、バビロンはアッシリアのように広大な領土を持っていたわけではありません。それにもかかわらず、「覇者」として人々に恐れられていました。では、その恐ろしさの本質は何だったのでしょうか。

 アッシリアは、逆らう者には容赦しない残忍な支配によって恐れられました。その恐怖は目に見えるものであり、暴力と軍事力によるものでした。しかしバビロンの恐ろしさは、それとは異なります。バビロンは、高い文明力と同化政策による支配を行いました。言語を変えさせ、名前を変えさせ、価値観を変えさせます。そして最終的には、神を忘れさせ、アイデンティティそのものを奪っていくのです。

 アッシリアの支配は「逃げたくなるような支配」でしたが、バビロンの支配は「逃げられない支配」と言えます。これは外からの圧力ではなく、内側から静かに侵食していく支配でした。バビロンの影響によって、イスラエルの民は、故郷を失い、神殿を失い、礼拝の中心を失いました。その結果、彼らは「神の臨在が感じられない生活」へと追い込まれていきます。

 そしてエゼキエル10章において決定的なのは、神の栄光が神殿を離れていくという出来事です。つまり、エゼキエルはバビロンによる支配で、イスラエルから神の臨在が失われることを霊的に見ているのです。つまり、ここで言いたいことは、バビロンが恐ろしいのではなく、神の臨在が失われることこそが、最大の悲劇であり、本当に恐ろしいことだということです。

2。本文解説(エゼキエル10章 )

①1–7節

 今日の本文では、ケルビムの間から火が取られ、墨壺を持っていた記録係がエルサレムに火の粉を撒き散らします。これは神の裁きを表しています。本来、都は神の臨在によって守られる場所でした。しかし今やその都に降ってくるのは、祝福ではなく裁きの火に変わっています。

②8–17節

 本文では、ケルビムと車輪の幻が描かれます。4つの顔と、あらゆる方向に動く車輪がついています。これはどこにでも目で見て動けるという意味があります。つまり神の全知・全能・主権を表しています。神様はすべてを支配する王であり、どこにでも臨在し、すべてを見ておられる方です。

③18–19節

 18節以降、最も衝撃的な場面が描かれます。主の栄光が神殿を離れるのです。主の宮の東の門の入口の所まで離れました。段階的にですが、主の栄光が離れています。これは単なる象徴ではなく、神の臨在の喪失を表しています。罪の結果で、私たちが最も恐るべきはこの神の臨在の喪失なのです。

3。適用

 私たちはエゼキエル8−10章の幻を通して、神様が全ての罪を明るみに出し、神様が裁きを下し、神殿を立ち去る流れを見てきました。もしかしたら、恐ろしい神様が立ち去って、この後少しはマシになるのでは?と考える方がいるかも知れません。しかしそうではありません。エゼキエル10章で神様の臨在を失うこの場面は、本当の破滅を表しているのです。

①まず、神様の臨在を失うということは、私たちの存在理由を失うということです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭15‬:‭5‬-‭6‬ 口語訳‬

 イエスは、「私を離れては何もできない。投げ捨てられ、火で焼かれる。」と言っています。富があっても、成功があっても、教会があっても、繋がっていないなら、何もできず、捨てられてしまうのです。ぶどうの枝はぶどうの木に繋がっていて、ぶどうの実を結ぶことができます。ぶどうの枝としての価値があるのです。しかし切り離されては、燃やされる木としての価値しかありません。燃やすなら別にぶどうの木でなくて十分です。もっと燃やしやすい木があります。。神様の臨在がないということは、裁きがないということだけではなく、もっと重要なアイデンティティを失うということを忘れてはいけません。

 イスラエルの民はバビロン捕囚を通して、故郷だけを失ったのではありません。神の民としてのヘブライ語を日常生活から失い、神の民として礼拝する神殿を失い、神の民として与えられた名前を失い、子供の教育には異教の教えが入り込みました。バビロンでは生活を保証され比較的自由に生きていきましたが、神の民としてのアイデンティティは奪われたのです。その結果、イスラエルの民は他のバビロンの支配下に入った民族と同じように、民族を失う危機に陥りました。

②次に、神様の臨在を失えば、他のものに支配されます。

「夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭13‬:‭2‬ 口語訳‬

 聖書は、イエスから心の離れたイスカリオテのユダの心に、悪魔の心が入り込んでいることを教えています。もしかしたら、イエスからも悪魔からも解放された自由があると思うかも知れません。しかし、実際は、何者の支配も受けないという状態は不可能なのです。人は弱い立場の存在です。私たちは神様の支配を受け入れるか、悪魔の支配を受け入れるかどちらかしかありません。もし神様の臨在を拒むなら、中間という立場はなく、悪魔の支配下に入ることになってしまうことを忘れてはいけません。

 イスラエルの民も、神様の統治を拒んだ結果、バビロンに完全に破壊されてしまいました。確かにバビロン捕囚は避けられない段階まで来ていました。しかし、hエレミヤを通して伝えられたバビロンへの服従を、神様の言葉として受け入れていれば、多くの命は助かり、神殿をはじめエルサレムの崩壊を回避できたかもしれません。残念ながらイスラエルの民は、神の統治を拒みました。その結果、エルサレムは完全に破壊され、バビロンの統治を受け、さらにはペルシャと長年他国の支配を受けることになったのです。

③だから、神の臨在を求めましょう。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭14‬:‭27‬ 口語訳‬

 イエスはキリストの平安を私たちに与えることを約束しています。その平安は、この世の与える平安とは違います。一時的ではなく永遠で、不完全ではなく完全な平安です。その平安は、イエスキリストと繋がることで、神の臨在が回復し、与えられるのです。

 そのためには、祈りましょう。祈りの中で神の臨在を求めてください。多くの人は困った時に祈ります。なぜなら、自分の願いを叶えるために神様の助けが必要だから、と考えるからです。しかし本来の祈りは違います。本来は自分の思いを断ち切り、神様の方向に自分を変えるために祈るのです。私たちが自分の思いを下ろして、神様に任せる時、神様が働かれます。

4。まとめ 

 神の臨在が去ると、すべてが崩れます。バビロンの支配は、その結果にすぎません。私たちはアイデンティティを失い、他のものの支配を受けるようになります。私たちの回復の道はただ一つです。神の臨在があることです。私たちはイスラエルのように神様の怒りを買いましたが、その裁きをイエスキリストが身代わりに受けました。私たちは再び神の臨在を求めることができます。祝福ではなく神の臨在を求める信徒となりましょう。 

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