20191018早天祈祷会 in Jesus Love Church
聖書:マタイ9:9-13
題目:罪人への態度
賛美:347、320
はじめに
聖書の中には、一見矛盾しているように見える箇所があります。たとえば、信仰と行いの関係、アブラハムがイサクを捧げる場面などです。
今日の箇所でも、イエス様が収税人や罪人たちと一緒に食事をされるという話があります。一見すると、これは矛盾しているように思えるかもしれません。しかし、よく考えると決して矛盾ではありません。
本論
1. 罪人と交際してはいけない理由
聖書は、不信者と釣り合わないくびきを共にしてはならないと教えています。(コリント第二6章14節)
また、旧約では、牛とろばを組み合わせて一緒に耕してはならないとも書かれています。(申命記22章10節)
なぜでしょうか。牛は清い動物ですが、ろばは汚れた動物です。習性も、歩く速度も、荷を引く力も異なるため、共に働くことが困難です。同様に、信者と不信者では、立場も価値観も、人生の目的も異なります。無理に結びつくと釣り合いが取れず、かえって悪影響を受けるのです。
旧約の例でも、ヨシャパテ王とアハブ王の関係(歴代誌1章18節)を考えると、悪しき者と共に歩むことの危険が理解できます。また、詩篇1章1節では「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に座らぬ人は幸いである」とあります。
さらに、新約では「私たちの言葉に従わない者には注意をし、交際を避けよ」とも教えられています。(テサロニケ第二3章14節)
2. 罪人と食事をしてはいけない理由
食事を共にするということは、同じパンを割き、同じスープに浸して食べることであり、その人と一つになることを意味します。つまり、罪人と一緒に食事をすることは、罪人と同じ立場になることを象徴します。
マタイは、悔い改めを行動で示し、その喜びの結果として友人を呼び宴会を開きました。この行動は、罪人が神に立ち返る喜びを表しているのです。
3. イエス様はなぜ罪人と食事をされたのか
イエス様は次のように説明されます。
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「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」
医者は病人と共にいなければ診療できません。イエス様は、自分を健康だと勘違いしているパリサイ人ではなく、「自分は病んでいる」と認める罪人たちのために来られたのです。 -
「わたしはあわれみを好み、いけにえを好まない。」(ホセア6:6)
神様は外側の形式よりも、内面の清さを重視されます。なぜ生贄が必要だったのでしょうか。それは、清い神と汚れた人間が交わるためです。生贄の目的は、神と交わることで私たちも清くなることにあります。しかし、多くの人が儀式だけに囚われ、誠実さやあわれみをおろそかにしていました。 -
「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
天国に招かれるのは、自分が正しいと主張する人ではなく、自分が罪人であることを自覚している人です。(マタイ5:3)
4. パリサイ人との対比
パリサイ人は、モーセの律法と細かい命令を忠実に守りましたが、神が本当に望むことを理解していませんでした。罪を憎むべきなのに、罪人を憎み、罪に近づくことを避けていました。
イエス様の行動は一見律法に逆らっているように見えますが、本質を理解した行動です。私たちが罪を遠ざける理由は、自分の罪深さを理解し、聖なる神に近づくためです。パリサイ人は、自分を聖なる者として誇り、罪人であることを認めませんでした。その結果、神と隣人を愛することができませんでした。
結論
神様が望んでおられるのは、自分の罪深さを理解している人です。マタイのような人には福音が用意されています。
私たちは、パリサイ人のように自分だけで聖なる生活をしていると勘違いするのではなく、イエス様のように罪の中で苦しんでいる人々に近づき、愛をもって励ましましょう。


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