20201002早天祈祷会 in Jesus Love Church
聖書:2コリント5:11-21
題目:キリストのために生きる
賛美:280
かつての私は、不真面目なクリスチャンを見ると腹が立ち、その人を見るだけで疲れてしまいました。
しかしパウロは、どんな人を前にしても伝道をやめませんでした。
では、パウロはなぜ伝道し続けることができたのでしょうか。
パウロは15節でこう語ります。
「私たちは、私たちの代わりに死んでくださったイエス様のために生きている。」
つまり、私たちは自分のためではなく、身代わりとなって死んでくださった主のために生きる者なのです。
さらに18〜19節では、
神 → イエス → 私たち
そして
イエス → パウロ → 私たち
という流れが示されます。
神様はイエスを通して私たちを和解させ、私たちには人々の和解を助ける役目が与えられています。
「わたしの羊を飼いなさい(Feed my sheep)」というイエスの言葉のように、私たちは和解の務めを託された者です。
しかしこの「和解を助ける」という働きは、言葉だけ聞くとピンとこないかもしれません。
そこで、一つのイメージを思い浮かべてみてください。
もし、自分の身代わりとなって命を失ってくれた人がいて、その人から
「息子を頼む」
と最後に言われたとしたらどうでしょうか。
その人の顔を思い出すだけで、「頑張ろう」と思えるはずです。
たとえば、嫌で仕方がない職場の上司だとしても、
もしその上司が自分のために犠牲になってくれたのなら、
「その人の子供のために、自分も頑張ろう」と思えるはずです。
私たちは普段、隣人ばかりを見て疲れてしまいます。
しかし、イエス様の姿を見るとき、力が湧いてくるのです。
私自身、アメリカに行く決断をしたとき、
「自分は死んだ者として行く」
という思いで臨みました。
自分を見るのではなく、ただイエス様だけを見るためです。
結論
本来、私たちが死ぬはずだったのに、イエス様が身代わりとなってくださった。
だからこそ、私たちはイエス様のために生きることができます。
人ばかりを見て生きるのではなく、
イエス様を見て生きる者となりましょう。


댓글0개