20210522早天祈祷会 in Jesus Love Church
聖書:レビ10:1–3
題目:ナダブとアビフの最後
賛美:280
説教:高曜翰 伝道師
1.ヘブライ語の言葉から見えること
「男」=イーシュ
「女」=イシャー
「神」=ヤー(ヤーウェの短縮形)
「火」=エーシュ
男(イーシュ)と女(イシャー)の言葉には、共に「ヤー(神)」を含む部分があると言われます。しかし、その違いを取り除いてしまうと、「神」を示す部分が消え、残るのは「火(エーシュ)」だけになります。
――その「火」によって焼かれてしまった人の話が、今日の本文です。
2.アロンの子 ナダブとアビフ
2節には、「主の前から火が出て、彼らを焼き尽くした(devoured / consumed)」とあります。
4–5節を見ると、彼らの衣服は燃え尽きていないようなので、身体だけが神の火で撃たれたのでしょう。
では、彼らの何が問題だったのでしょうか。
① 異なる火を捧げた(1節)
レビ記9:24で、主は祭壇の上にご自身の火を下されました。香をたく香壇には、その祭壇の火を使わなければなりませんでした。しかし何らかの理由でその火を使わず、別の火を持ち込んでしまったのです。(おそらく祭壇の火を消してしまった。)
② 神の聖にふさわしくなかった(3節)
「私に近づく者のうちに、私は聖なることを示す」と神は言われます。
ナダブとアビフの心は、神の聖さにふさわしい状態ではありませんでした。
3.オリンピック聖火との違い
オリンピックでは、ヘスティアという女神に仕える巫女が聖火を灯し、絶対に火を消してはならないという演出があります。しかし、それは「外側の儀式」の問題であり、火を運ぶ人の心までは問われません。
しかし神様は、儀式よりも「心」を見られます。
ここが決定的に違います。
4.礼拝における“火”とは何か
今日の本文でいう火とは、私たちの礼拝の心を象徴しています。
ナダブとアビフは火が消えたので、別の場所の火を持ってきました。
つまり 彼らの心は神ではなく、他のものへ向いていた のです。これが罪でした。
これは、奥さんと会っているのに他の女性のことを考えるようなものです。
――「心がそこにない」のです。
私たちも、礼拝や奉仕、祈りのときに
心の火を消してしまっていないか
常に自分を点検する必要があります。
5.アロンの態度から学ぶ
アロンと残る息子たちは、ナダブとアビフの遺体に触れることも、悲しみを表すことも許されませんでした(やがて祭司は死体に触れてはならないため)。
これは、
罪の結果そのものを悲しむことはできない
ということを象徴しています。
例)浮気がバレた夫が「自分が招いた結果」で泣きわめくようなもの。
息子の死はどれほど辛かったことでしょう。しかしアロンは取り乱すことなく、神とモーセの命令に従いました。
やがて、ヤギの肉を食べなかったことでモーセに叱られる場面がありますが、アロンはこう言います。
「もし今日、私がそれを食べたなら、主はこれを良しとされたでしょうか」
これは、神が求められるのは“形式”よりも“心”であることを理解していたからです。
モーセもこれを聞いて納得しました。
結論(本論のまとめ)
-
神の前に出るとき、心がどこに向いているかを点検しましょう。
礼拝・祈り・奉仕の中心は“心の火”です。 -
アロンのように、自分の価値観ではなく、神の主権と基準に従いましょう。
神が見られるのは外側ではなく、心です。


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