20230605早天祈祷会
聖書:出エジプト2:1ー10
題目:水から引き出された者
賛美:322番
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
1.本文解説
1節
レビ家の一人の男が、レビの娘を妻に迎えました。
これは、アムラム(아므람)とヨケベデ(요게벳)の結婚を指しています(出エジプト6章20節)。
ヨケベデという女性は、兄弟であるコハテ(고핫)の息子と結婚しました。
この結婚は、のちにモーセの律法においては禁止される関係となります。
2節
その女は身ごもって男の子を産みました。
彼女はその子が麗しいのを見て、三か月の間、彼を隠しました。
ここで描かれているのは、モーセの誕生です。
「麗しい」という言葉は「トーブ(良い)」という意味であり、
それは単に外見が良かったという意味ではなく、神の目に良かったという意味です(使徒7章20節)。
両親は、霊的な目をもってこの子を見たと考えられます。
すでにアロンとミリアムは生まれており、命を保っていました。
それでも両親は、王よりも神様を恐れ、モーセを隠しました。
3節
しかし、もはや隠しきれなくなったため、
母はパピルス(파피루스)で編んだかごを用意し、
アスファルト(아스팔트)と樹脂(수지)を塗って防水し、
その中に子どもを入れて、ナイル川の岸、葦の中に置きました。
ここで重要なのは、
「ナイル川に投げ込む」という王の命令には従わず、
「ナイル川に置いた」という点です。
この行動には、神様から与えられた知恵がありました。
4節
その子の姉は、どうなるのかを知ろうとして、少し離れた所に立って見守っていました。
この姉とは、ミリアムです。
当時13歳ほどであったミリアムは、弟モーセを心配し、離れることができませんでした。
母ヨケベデから、「見ていなさい」と言われていた可能性も考えられます。
5節
パロの娘が体を洗うためにナイル川へ下ってきました。
侍女たちが川辺を歩いていると、
パロの娘は葦の間にあるかごを見つけ、侍女に命じて取って来させました。
ナイル川は、エジプトにおいて女神とされ、命と癒しを与える川と信じられていました。
洪水、種まき、収穫という循環が、エジプトの生活様式でした。
水浴びは、朝の祈りを終えた後の宗教的行為でもありました。
このパロの娘は、ハトシェプスト(햇셉수트)であった可能性もあります。
彼女は後に男装してパロとして統治し、
平和的で知恵のある王として知られています。
6節
かごを開けると、赤ん坊が泣いていました。
それを見てパロの娘は憐れに思い、「これはヘブル人の子どもです」と言いました。
彼女はまず、子どもを「かわいそうだ」と感じました。
では、なぜヘブル人の子どもだと分かったのでしょうか。
それは、ヘブル人とエジプト人では割礼の仕方が違ったからです。
ヘブル人は表皮を完全に除去しますが、
エジプト人は前皮の一部だけを除去していました。
7節
その時、子どもの姉がパロの娘に言いました。
「私が行って、あなたのために、この子に乳を飲ませるヘブル人の女を呼んで来ましょうか。」
これは、ミリアムの大胆な提案でした。
ここにも、神様の計画が見えます。
8節
パロの娘は「行ってきてください」と答えました。
少女は行って、その子の母親を呼んできました。
この時点で、パロの娘は、
この子がヘブル人の男の子であることを確信していたと考えられます。
9節
パロの娘は言いました。
「この子を連れて行き、私の代わりに乳を飲ませてください。その報酬を差し上げます。」
女はその子を引き取って乳を与えました。
なぜ、乳母を雇ったのでしょうか。
母ヨケベデは、パロの娘から報酬を受け取りながら、モーセを育てることになりました。
パロの娘は騙されたのではなく、すべてを理解した上で、そうしたのです。
それは、自分の父であるパロの命令によって、母親たちが苦しんでいる現実を憐れに思ったからでした。
10節
その子が成長すると、母は彼をパロの娘のもとへ連れて行きました。
彼はパロの娘の子となり、
彼女はその名を「モーセ」と名付けました。
「水の中から、私が引き出したから」です。
モーセは、五歳前後まで実母のもとで育てられ、
ヘブル人としての教育を受けました。
これは、アイデンティティが形成される非常に重要な時期です。
その後は、パロの娘の子として王宮で教育を受けました。
神様は、人の力ではなく、
命を大切にする一人の女性を通して、モーセを守られたのです。
2.何を守るのか
私たち自身について
私たちも、モーセのように、本来は死ぬべき存在でした。
そして私たちも、モーセのように、自分の力ではなく、引き上げられた存在です。
さらに私たちも、モーセと同じく、神様の計画の中で生きる者とされています。
モーセは誰によって助けられたのか
母ヨケベデは、神様の計画を信じ、モーセを守るために彼をナイル川に置きました。
姉ミリアムは、モーセを守るために、その場を離れず、川辺で見守りました。
パロの娘は、命を守るために、父の命令に逆らい、ミリアムに乳母を依頼しました。
ここには、パロを恐れて縮こまっている人はいません。
それぞれが使命感を持って生きた結果、モーセは救われたのです。
私たちの救い
私たちの救いは、自分が成し遂げた結果ではありません。
神様のもとで、使命感を持って生きる人々を通して与えられたものです。
それは、自分の幸せだけに集中している人々によってではありません。
私たちを結びつけているのは、使命感です。
3.イエス様の言葉の意味
イエス様は、「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」と語られました。
意味①
ユダヤ人はイエス・キリストを認めませんでした。
しかし、人々の間におられるイエス・キリストを通して、神の国は来ていました。
これは、イエス・キリストを無視して、神の国に入ることはできない、という意味です。
パリサイ人たちはイエスを無視したため、
神の国と、弟子たちが体験したような奇跡を逃しました。
意味②
神の国は、すでに来ています。
だからこそ、私たちは今、神の国のために行動すべきなのです。
神の国に行きたいと願いながら、
神の国のために生きようとしない態度こそが問題です。
私たちの中にイエス・キリストがおられるのに、
どうして神の国を無視するのでしょうか。
それは、その国の法律に従おうとしない外国人の姿に似ています。
復活後のイエス様
復活されたイエス様は、四十日の間、神の国について語られました(使徒1章3節)。
聖霊が与えられたのは、より良い生活のためではなく、伝道のためです。
私たちの信仰生活は、祝福そのもののためではなく、神の国のためにあります。
4.私たちのすべきこと
私たちは、何のために生きているのでしょうか。
ヨケベデ、ミリアム、パロの娘がモーセの命をつないだように、
神様は、私たちにも命をつなぐ役割を望んでおられます。
私たちも使命感をもって、
神の国を伝えるために、残りの人生を歩んでいきましょう。


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