20230813修練会 一日目説教
聖書:ルカ5:18-26
(並行箇所:マタイ9:1-8、マルコ2:1-12)
題目:赦されるために
賛美:주님의 시선 부제 나는
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
はじめに(主題)
私たちが赦されるために「できること」は、実は何もありません。
私たちがすべきことはただ一つ、すでに赦されているという事実を受け止め、赦された者として歩み始めることです。
神が私たちを赦してくださったのですから、私たちもまた、自分自身を赦して生きていきましょう。
1.宮沢賢治という人物
① 熱心な仏教徒としての歩み
宮沢賢治は、非常に熱心な仏教徒(불교도)でした。
法華経(법화경)に強く影響を受け、「自分の救いよりも他人の救い」「あの世よりも、この世で仏国土を実現すること」を理想としていました。
彼は「本当の幸せとは何か」を常に悩み続けていました。
人々が幸せに生きることのできる理想の社会(이상적인 사회)とは何かを探し求め、自分ではなく隣人を第一に考える生き方を目指していました。
② キリスト者との出会い
やがて宮沢賢治は、キリスト者との出会いを通して、大きな影響を受けるようになります。
内村鑑三の影響を受け、聖書を読むようになりました。そこから彼は、人間の側からの絶え間ない努力ではなく、天から与えられるものによって救いと幸せが来ることに気づいていきます。
仏教の神ではなく、キリストの再臨にこそ本当の幸せがあると考えるようになりました。
また、斎藤宗次郎の生きる姿を通して、理想の社会を実現するために本当に必要なのは「教え」ではなく、「生き方」であることを知ります。彼は宗教的な議論をしませんでしたが、キリスト者としての生き方そのものが証しでした。
その結果、当初は仏教伝道のために構想されていた『銀河鉄道の夜(은하 철도의 밤)』は、基督教的世界観を内包する作品へと変えられていきました。
③ 日本人の価値観:努力至上主義
日本社会には、「努力至上主義」という強い価値観があります。
努力すれば成功でき、人にも神にも認められるという考え方です。そこには因果応報(인과응보)の思想があります。
お百度参り、お遍路、お賽銭などに代表される宗教観も、「努力すれば報われる」という発想に基づいています。
反対に、楽をして怠れば、罰や怒りが下ると考えられがちです。
しかし、努力の先にあるものは必ずしも希望だけではありません。
努力が報われなかったとき、人は深い絶望に陥ります。
成功した場合でも、高慢になり、他者と助け合うことができなくなります。
宮沢賢治は、人間の下からの努力ではなく、上から与えられる神の恵みこそが、人を生かす力であることに気づいたのです。
2.中風病者の癒し(ルカ5:18–26)
① 出来事の背景
この出来事は、おそらくペテロの家で起こったと考えられます。
イエスは人々を癒し、神の国について教えておられました。
そこに多くのパリサイ人や律法学者たちが集まり、イエスのメシアとしての働きを吟味していました。
家は多くの人で埋め尽くされ、緊張感に満ちていました。
② 招かれざる客
その場に、四人の男が一人の中風病者(중풍병자)を運んできます。
彼は脳溢血(뇌일혈)の後遺症(후유증)により、身体が麻痺(마비)した状態でした。
しかし、家の中は混雑しており、正面から入ることができませんでした。
③ 四人の男たちの行動
彼らは諦めませんでした。
屋上(옥상)に上り、屋根の瓦をはがしました。
そして、人々の真ん中、イエスの目の前に、寝床ごと中風病者をつり降ろしました。
普通なら引き返してしまう状況にもかかわらず、何としてもイエスの前に連れて行こうとしたのです。
④ イエスの宣言
イエスは彼らの信仰を見て、こう言われました。
「友よ、あなたの罪は赦された。」
彼らは、イエスをメシアであると信じていました。
ルカでは「友よ」、マタイとマルコでは「子よ」、英語では Man と表現されており、イエスの深い親愛の情が示されています。
「Your sins have been forgiven.」という表現では、「罪」は複数形(복수형)、「赦された」は現在完了形・受動態(현재 완료형 수동태)です。
これは、罪がすでに完全に赦されているという宣言でした。イエスは、屋根を壊してでも連れて来ようとした彼らの信仰をご覧になったのです。
イエスはまず、病の癒しではなく、罪の赦しを宣言されました。それは、パリサイ人たちの前で、ご自分に罪を赦す権威があることを示すためでした。
⑤ パリサイ人たちの心
彼らは心の中でこう考えていました。
神以外に、罪を赦すことのできる者はいない。
この男は神なのか、それとも神を冒瀆する者なのか。
しかし彼らは、イエスが神であるという結論に至ろうとはしませんでした。
⑥ イエスの応答
イエスは彼らの心を見抜き、問いかけられます。
「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」
「罪は赦された」と言うことは、言葉だけなら簡単です。
しかし、「起きて歩け」と言う場合は、目に見える結果が伴わなければなりません。
そこでイエスは、中風病者に命じられました。
「寝床をたたんで、家に帰りなさい。」
より難しい命令を行うことで、罪の赦しが真実であることを証明されたのです。
⑦ 結果
中風病者は信仰によって応答し、すぐに立ち上がり、神をあがめながら家に帰りました。
それを見た人々も、皆神をあがめました。
この出来事によって、人々はイエスをメシアとして受け入れるかどうかの岐路に立たされました。
パリサイ人たちは、イエスを要注意人物として認識し、以後、常に監視するようになります。
彼らは繰り返しイエスに論争を挑むようになります。
罪を赦す権威は、イエス・キリストだけにあります。人間には、罪を赦す・赦さないを論じる権利はありません。私たちが赦されるために必要なのは、ただイエスの前に出ることだけです。
3.適用
① なぜ彼らは癒され、平安を得たのか
彼らは、メシアであると信じたイエスの前に来ました。
自分たちの持ち物や才能によって、平安を得たのではありません。
本当の癒しと平安は、この世ではなく、神にあります。
② 「努力すれば偉い」という考えへの問い
努力すれば赦されるわけではありません。これは多神教的な発想です。
努力の方向が間違っていれば、それは意味を持ちません。
私たちはただ、神の恵みによって罪を赦され、平安を与えられます。
私たちに必要なのは、功績を積む努力ではなく、神に近づくことです。
罪を赦された者は、中風病者のような平安を得ます。そして、宮沢賢治のように、平安を造り出す者へと変えられていくのです。
③ 人ではなく、神へ
不安定な人を基準にするのではなく、変わることのない神を基準にして生きましょう。
相対的な人間に基準を置き、絶対的な神に基準を置かないから、私たちは苦しくなります。
あなたに本当の平安を与えることができるのは、人ではなく神です。
結び
私たちは、何かを成し遂げたから赦されるのではありません。
赦されたからこそ、歩み出すことができるのです。
どうか今日、イエスの前に出てください。そこに、赦しと平安があります。


댓글0개