20230820早天祈祷会
聖書:出エジプト33:1–11
題目:負けてあげる神様
賛美:70番
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
0.背景 ― 金の子牛の像事件
本日の箇所の背景には、「金の子牛の像事件」があります。
モーセがシナイ山に登って40日間主と共にいた間、民は待ちきれず、偶像を作って拝みました。
この出来事に激しく憤ったモーセは、神から授かった二枚の石の板を砕きます。
アロンは自分の責任を曖昧にし、結果として、レビ族が同じレビ族の中から約3000人を処刑するという、非常に重い出来事が起こりました。
レビ族の男子は全体で22,000人(民数記3:39)でしたから、その痛みの大きさが分かります。
この深刻な罪の直後に語られるのが、出エジプト記33章の出来事です。
1.本文解説
①「約束の地に上りなさい」(1節)
神様は、イスラエルの民に対してこう言われます。
「あなたがたは、約束の地に上りなさい。」
ここで重要なのは、神様は約束を取り消しておられないという点です。
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神様がカナンの地を与えるという決定は変わっていません。
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それはアブラハムとの契約によるものであり、イスラエルの態度や出来によって左右されるものではありません。
②「ひとりの使いを先に遣わす」(2節)
ここに、大きな変化があります。
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出エジプト記23章23節では、「わたしの使い」とあります。これは神ご自身、すなわちキリストを指す表現です。
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しかし33章2節では、「ひとりの使い」、つまり天使に変わっています。
同じ点もあります。
敵を追い払うのは、依然として神様ご自身です。
しかし、ここで神様は、ご自身が共に行かないことを暗示されているのです。
③「わたしは一緒には行かない」(3節)
神様は、はっきりとこう言われます。
「わたしは、あなたがたと一緒には上らない。」
理由は明確です。
イスラエルの民は「うなじのこわい民」であり、神が共におられるなら、その罪深さのゆえに、途中で滅ぼしてしまうかもしれないからです。
これは裁きであると同時に、民を生かすための判断でもありました。
④民の反応 ― 飾りを外す(4節)
この言葉を聞いた民は悲しみ、だれ一人として身を飾る者はいませんでした。
この「飾り」は、金の子牛の像事件の際に身につけていたものと考えられます。
つまり、飾りを外す行為は、罪への悔い改めのしるしであり、喪に服すような姿でした。
⑤神は機会を与えられる(5節)
神様はこう言われます。
「一刻でも共にいれば、あなたがたを滅ぼしてしまう。
だから飾りを外しなさい。そうすれば、どうするかを決めよう。」
ここには、神の憐れみがあります。
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シナイ契約は血の契約であり、本来なら違反者は滅ぼされるべきでした(出エジプト24章)。
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それでも神は、完全に見放すのではなく、悔い改めの機会を与えられたのです。
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主が共に行かないという決断さえ、実は民を生かすための恵みでした。
⑥イスラエルは従った(6節)
民は、ホレブ山以来、その飾りを外し続けました。
彼らは、事の重大さに気づいたのです。
もしここで悔い改めなければ、出エジプト25~31章で与えられた幕屋の命令は、すべて無意味になってしまいます。
⑦会見の幕屋(7節)
モーセは、宿営の外、離れた場所に「会見の幕屋」を設けました。
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これは後の幕屋とは別のものです。
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神の栄光が宿営の中から離れたため、宿営の外で神と対話する必要がありました。
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主を求める者は、この会見の幕屋に出て行きました。
⑧民の態度の変化(8節)
モーセが会見の幕屋に向かうと、民は皆立ち上がり、自分の天幕の入り口で見送りました。
距離は、ヨシュア記3章4節を根拠にすると約900メートルほどと考えられます。
かつて反抗的だった民の中に、神とモーセへの畏敬の念が生まれていました。
⑨雲の柱(9節)
モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降り、幕屋の入口に立ちました。
これは、シナイ山の頂から降りてきた主の臨在のしるしです。
主は雲の中から、モーセに語りかけられました。
⑩民の礼拝(10節)
この光景を見て、民は皆、自分の天幕の入口で立って礼拝しました。
神とモーセが語り合っているという事実そのものが、民に深い畏れを与えたのです。
⑪顔と顔を合わせて語る神(11節)
主は、人が友と語るように、モーセと顔と顔を合わせて語られました。
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これは、神と民との和解の可能性が、まだ残されていることを示しています。
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モーセは神の言葉を民に伝えるために宿営へ戻ります。
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一方、ヨシュア(およそ50歳)は会見の幕屋を離れず、そこを守りました。
2.適用
①本当に大切なものは何か
問題は、祝福があるかどうかではありません。
神様が共にいてくださるかどうかが、何よりも大切です。
イスラエルの民は、ここで正しい選択をしました。
②なぜ神はモーセの祈りに答えるのか
それは、神は「負けること」をいとわないお方だからです。
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真剣に神を求める者に対して
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真実に悔い改める者に対して
神は心を動かされます。
創世記32章のヤコブは、神と格闘し、勝ち、「イスラエル」という名を受けました。
神は、真剣な祈りにおいて、負けてくださるお方です。
③共にいることを喜ばれるイエス
イエスはこう言われました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」(マタイ28:20)
恐れるな、という命令の後には、必ず「わたしが共にいる」という約束があります。
インマヌエル――神は、私たちと共におられる方です。
④共にいるためなら負けてくださる神
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長血の女は、「衣の房に触れさえすれば癒される」と信じました(マルコ5:28)。
彼女は社会から完全に隔離された存在でした。 -
姦淫の女に対して、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました(ヨハネ8:11)。
律法では石打ちの死刑でした。
神は、共にいるために、裁きを一時的に退かれるお方です。
⑤私たちの生き方
私たちの祈りは、
「祝福をください」「問題を解決してください」だけではありません。
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「神様、どうか共にいてください」
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「私の平安が、主と共にいることになりますように」
どれほど遠く離れてしまっても、
「私が悪かった」と戻るなら、
神様は負けて、私たちを迎えてくださるお方です。


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