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故意に罪を犯す者(民数記15:32–36)
고요한 2026-01-16 추천 0 댓글 0 조회 50

 

20231212早天祈祷会

聖書:民数記15:32–36
題目:故意に罪を犯す者
賛美:252

説教:高曜翰 副牧師

場所:중앙성서교회


聖書本文(民数記15:32–36)

イスラエルの子らが荒野に宿営していたとき、ある人が安息日に薪を集めているのが見つかった。薪を集めているその人を見つけた者たちは、彼をモーセとアロン、そして全会衆の前に連れて来た。

しかし、どのように処罰すべきかについての明確な指示がまだ与えられていなかったため、彼らはその人を監禁した。すると主はモーセに言われた。

「その者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、石で彼を打ち殺さなければならない。」

そこで全会衆は、その人を宿営の外に連れ出し、主がモーセに命じられたとおり、石で打ち殺した。


1.本文解説

① 故意に罪を犯す者は、誰一人として許されない(15:30–31)

ここでまず押さえるべきことは、「わざと罪を犯すこと」と「過失や失敗による罪」とは、全く異なるという点です。律法において、故意に神の命令を踏みにじる行為は、神ご自身を侮る行為と見なされました。

② わざと罪を犯す者の具体例(15:32–36)

この箇所では、その具体的な例として、安息日に薪を集めていた一人の人物が登場します。

  • 彼は安息日に薪を集めていました。

  • それが罪であることを知りながらも、悔い改めませんでした。

  • 人々は、どう処置すべきか分からず、とりあえず彼を閉じ込めました。

出エジプト記31章12–17節には、「安息日に仕事をする者は必ず殺される」と明確に書かれています。しかし、「どのように殺すのか」という具体的な方法までは記されていませんでした。そのため、人々は神の判断を待ったのです。

③ 神様の答え

主の答えは非常に明確でした。

  • この者は必ず殺さなければならない。

  • 全会衆が宿営の外で、石で打ち殺さなければならない。

ここには重要な意味があります。

  • 全会衆が殺すこと:自分たちの手で処刑に関わることで、罪の重さを自分自身の問題として知るためです。

  • 宿営の外で殺すこと:律法を守れない者を、聖なる民の共同体から切り離すことを意味します。

  • 石で打ち殺すこと:古代オリエントにおいて、最も苦痛が大きいとされる処刑方法であり、罪の深刻さを強く示しています。


2.新約聖書における安息日

① 安息日を破るように見えるイエス

新約聖書において、イエスはしばしば安息日に行動されました。

  • 弟子たちが麦の穂を摘んで食べた(マタイ12:1)

  • 病人を癒した(ルカ14:1–5)

  • 会堂で手の萎えた人を癒した(マルコ3:1–6)

② 会堂での出来事(ルカ13:10–17)

  • 18年間、病の霊に縛られ、体を伸ばすことのできない女性がいました。

  • イエスは安息日に、しかも会堂司が見ている前で、あえてその女性を癒しました。

  • 会堂司は怒り、「働くべき日は六日ある。その間に癒してもらいに来なさい。安息日にはいけない」と言いました。

③ イエスの反論

イエスは彼らにこう言われました。

  • 「偽善者たちよ。あなたたちも安息日に、家畜を小屋から解いて水を飲ませているではないか。」

  • 「18年間もサタンに縛られていたこの女を、安息日であっても解いてやるべきではないか。」

その後、イエスは神の国について語り始められました(ルカ13:18)。


3.現代において主日を守るということ

① 律法主義の危険

現代でも、「主日に教会を休めば罪だ」「地獄に落ちる」と言ったり、「旧約時代なら死刑だ」と脅すような考え方があります。しかし、それはイエスの姿勢とは異なります。

イエスは、あえて主日に行動されました。それにもかかわらず、私たちは日曜日に教会に来ないという理由だけで、その人の信仰を判断してしまうことがあります。これは、パリサイ人と同じ態度です。

② 主日は誰のためにあるのか

  • 主日は、私たちが主に礼拝をささげるために設けられた、恵みの場所です。

  • 毎週日曜日に礼拝すること自体は、すばらしいことです。しかし、それが義務となり、律法主義になってしまうなら、神は喜ばれません。

  • 主日に仕事をしていても、それが神の栄光のためである場合もあります。

  • 反対に、主日に教会に来ていても、祝福を受けるため、評価されるためであれば、それは神が喜ばれる礼拝ではありません。

「なぜ日曜日に教会に来るのですか?」と尋ねると、「礼拝を見に来た」と答える人がいます。しかし、その態度は正しくありません。礼拝は“見るもの”ではなく、“ささげるもの”であり、何かをもらうための場ではありません。

③ 何に権威を置くのか

  • 私たちは、神ご自身に権威を置くべきです。

  • 科学、文化、礼儀が最終的な基準ではありません。

たとえば、イスラエルの歴史において、人々は聖殿そのものではなく、御言葉(律法)に重きを置くようになっていきました。

教会や聖書でさえ、使い方を誤れば偶像になり得ます。

例として、ある夫が妻を評価するときに、神の言葉ではなく、他の女性の意見を基準に判断してしまうなら、それはすでに権威の置き所を間違えています。


4.まとめ

  1. 律法の時代には、安息日に仕事をすれば死刑でした。それは、「してはいけないことを、わざとする行為」が決して許されない罪だったからです。

  2. 恵みの時代である現代では、安息日に仕事をすること自体が問題なのではありません。問題なのは、安息日をどのような態度で過ごしているかです。

    • たとえば、倒れている老人を無視して教会に向かうなら、それは本当に正しい姿勢なのか、問い直す必要があります。

  3. 私たちは、安息日によって人を裁くのではなく、安息日を自分のためではなく、神のために用いる者でありたいのです。

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