20240421青年部礼拝
聖書:ルカ15:11-32
題目:放蕩息子
賛美:너는 내 아들이라
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
Ⅰ.導入:放蕩息子のたとえが本当に語っていること
放蕩息子のたとえ話は、私たちが父に逆らって家を出て行った次男のような存在であり、神様が悔い改めて戻ってくる次男を喜んで迎える父のようなお方であることを教えています。
しかし、このたとえ話はそれだけでは終わりません。
むしろ、悔い改めた次男と、それを無条件に受け入れる父に対して憤慨する長男の姿を通して、私たち自身の姿を照らし出しています。
長男のような「良い行い」によっても、次男のような「悪い行い」によっても、私たちは父なる神様の愛に対して壁を作り、神様との関係を遠ざけてしまいます。
重要なのは、私たちが何を成し遂げたかではなく、神様の愛をそのまま受け取る関係にあるかどうかです。
私たちの焦点を神様の心に向け、悔い改めて帰ってくる罪人を待ち、共に喜ばれる神様と一緒に喜ぶ存在になりましょう。
Ⅱ.放蕩息子のたとえ話の内容
1.たとえ話の背景(Slide2)
イエスが取税人や罪人たちと一緒に食事をしていたとき、パリサイ人たちはそれを激しく批判しました。
「この人は罪人たちを迎えて、一緒に食事をしている」と言ったのです。
当時、「一緒に食事をする」という行為は、その相手を仲間として認めることを意味していました。
この批判に対する答えとして、イエスは三つのたとえ話を語られます。
それが、「失われた羊」「失われた銀貨」、そして「失われた息子」です。
2.弟が父に財産分与を願う(Slide3)
弟は、まだ生きている父に対して「自分の分の財産をください」と願いました。
これは、父の死を願うかのような、非常に無礼で失礼な要求でした。
しかし父は、その要求を拒まず、財産を二人の息子に分け与えます。
兄は、このあり得ない父と弟の行動を前にして沈黙し、家族関係の崩壊を見て見ぬふりをしました。
弟は家を出て、家族の名誉を失墜させ、貴重な財産を自分勝手に使い果たしてしまいます。
3.飢饉と徹底的な転落(Slide4)
やがてその国に飢饉が起こり、弟は豚の世話をするほどに落ちぶれます。
豚はユダヤ人にとって不浄な動物であり、自ら進んで関わることはありません。
弟は、自分が軽蔑していた異邦人のもとで働くことになり、豚の餌を横取りしたいと思うほど、惨めな状態に陥りました。
お金がある時に近づいてきた友人たちは、誰一人として助けてくれませんでした。
4.弟の悔い改めと決断(Slide5)
弟はようやく我に返り、父の家には食べ物が有り余っている使用人が大勢いるのに、自分はここで飢えて死にそうだと気づきます。
「息子と呼ばれる資格はないが、せめて使用人として使ってもらおう」
そう決心し、自分の過ちを認めて家に帰ることを選びました。
自分の愚かな選択によって、人生を無駄にし、悲惨な状況に陥った結果、
自分には家族の一員としての資格も、愛を受ける資格もないことを認めたのです。
5.父は弟を息子として迎える(Slide6)
父は、まだ遠くにいる弟を見つけると、自ら走り寄り、その首を抱いて口づけしました。
通常、父親は息子が近づいて敬意を示してから応じる存在です。
しかも当時の中東文化では、年長者が走ることは恥ずかしい行為でした。
それでも父は、自分の恥を顧みず、息子を迎えに行きました。
弟は「天と父に対して罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」とだけ告白します。
父の姿を見て、自分のせいで父が受けた恥と痛みを悟ったからです。
父は最上の服、指輪、履き物を用意し、肥えた子牛を屠って祝宴を開きました。
指輪は「この者が私の息子である」という証です。
父は、愚かな選択をした息子を責めることなく、「死んでいた息子が生き返った」と喜びました。
6.弟を受け入れられない兄(Slide7)
仕事を終えて帰ってきた兄は、弟の帰還と宴会の様子を知り、激怒します。
兄は家に入ろうとせず、父と弟を拒絶しました。
父は宴会の席を離れ、兄をなだめに行きます。
しかし兄は、「自分は長年忠実に仕えてきたのに、報いを受けなかった」と不満を爆発させます。
兄は父を「あなた」、弟を「あなたの息子」と呼び、親子関係そのものを拒みました。
それに対して父は、兄を「息子よ」と呼び、
「あなたはいつも私と一緒にいる。私のものはすべてあなたのものだ。しかし弟は死んでいたのに生き返ったのだから、喜ぶのは当然だ」と語ります。
父は、弟を受け入れたように、兄にも弟を受け入れてほしいと願っていました。
Ⅲ.放蕩息子のたとえ話の意味
1.私たちは弟のような罪人である(Slide8)
私たちは神様から与えられた人生を、自分勝手に使い、賜物を浪費してしまう存在です。
自分の行動が家族や周囲に悪影響を与えても、気にしないほど自己中心的になります。
しかし、自分の愚かな選択によって苦境に立たされたとき、ようやく周囲が見え始めます。
人目を気にせず駆け寄ってくる父の姿を見て、自分の罪に気づくのです。
2.私たちは兄のような罪人でもある(Slide9)
このたとえ話の中心は、実は兄の姿です。
なぜなら、イエスが語りかけていた相手は群衆ではなく、パリサイ人たちだったからです。
兄は表面的には父に忠実でしたが、弟と父の愚かな選択に沈黙し、家族関係を回復しようとしませんでした。
弟を見下し、自分は正しいという思いに囚われていました。
弟が最高のもてなしを受けた時、兄の本性が現れます。
驚き、嫉妬し、父の赦しに怒り、自分を義だと主張します。
父が人目を気にせず兄に近づいても、兄は自分の罪を認めようとしません。
正しく生きてきたという思いが、高慢となり、父の心を理解できなくなっていたのです。
弟と違い、兄は放蕩しませんでした。
しかし兄もまた、弟と同じように父から心が離れていました。
3.それでも神様は罪人を息子として迎える(Slide10)
父は、悪い行動によって壁を作った次男を赦しました。
同時に、良い行動によって壁を作った長男にも寄り添い、態度を改めるよう求めました。
父にとって問題なのは、息子たちの行動ではありません。
最も大切なのは、父と子の関係でした。
人は行動によってではなく、心によって神の家族になるのです。
イエスがパリサイ人たちに伝えたかったのは、
「神は悔い改めて帰ってくる罪人を喜ばれる。そして、あなたたちにも共に喜んでほしい」ということでした。
Ⅳ.兄のように「許せない」と思う人へ
1.正しい人になろうとしないで(Slide1)
私たちは幼い頃から感情を抑えることを教えられてきました。
「怖がるのは弱い」「泣いてはいけない」と言われ、感情を持つこと自体が悪いことのように感じてしまいます。
感情を抑え込むと、やがて怒りとして爆発します。
「私はこんなに我慢して正しく生きているのに、なぜ許せないのか」という怒りです。
感情は殺すものではなく、制御するものです。
第一感情(寂しさ・悲しみ・恐れ・不安)は自然なものです。
問題なのは、その感情のままに行動することです。
感情を愛によって受け止めるとき、
「愛されるために正しい人になる」のではなく、
「愛されているから正しい人になれる」生き方へと変えられます。
Ⅴ.まとめ(Slide11)
1.私たちは次男のように、神様の賜物を浪費する罪人である。
2.私たちは長男のように、神様の恵みに憤慨する罪人である。
3.しかし神様は、悔い改める罪人を息子として喜んで迎えてくださる。


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