20240905早天祈祷会
聖書:士師記9:7-9
題目:ヨタムの宣言
賛美:436
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
はじめに
本日の箇所では、アビメレクが王となったことを受けて、ヨタムがゲリジム山の頂から語った宣言が記されています。
ヨタムはたとえ話を通して、人が自分の欲望によって立てた王の危険性を示し、神が立てる権威とは何かを教えています。
この御言葉を通して、神が与える権威の本質を学びましょう。
1.本文の解説
(1)ヨタムの叫び ― ゲリジム山からの宣言
アビメレクが王になったという知らせを聞いたヨタムは、ゲリジム山に登りました。
ゲリジム山は「祝福の山」と呼ばれ、そこからはシケムの町が一望できます。
ヨタムは山の頂から大声で叫びました。
「私の声を聞け。そうすれば神があなたがたの声を聞いてくださる。」
その声はエバル山まで響くほどであり、シケムとミロの人々に対する厳しい警告でした。
(2)木々のたとえ ― 王を求める人々
ヨタムはたとえ話を語ります。
木々が自分たちの王を立てようとして、オリーブの木に「私たちの王になってください」と頼みました。
ここで、
-
木々 = シケムの住人
-
オリーブの木 = 神の使命のために使われる尊い油
を表しています。
オリーブの油は王、預言者、祭司への油注ぎに用いられる、神に仕える象徴でした。
(3)オリーブの木の拒否
オリーブの木は答えました。
「私は神と人をあがめるために用いられる油を捨てて、木々の上に立つべきでしょうか。」
つまり、神に与えられた重要な使命を捨て、人を支配する王になることを拒んだのです。
ヨタムはさらに、アビメレクをイバラの木に例えました。イバラは実を結ぶことができず、燃やすことしかできません。
アビメレクは必ずシケムとミロを苦しめる存在になるという警告でした。
そして問いかけます。
父ギデオンがイスラエルのために行ったことの対価が、七十人の息子を殺し、アビメレクを王に立てることなのでしょうか。
2.新約聖書から学ぶ
(1)権威は神様が選ぶもの
権威は自分から求めて得るものではありません。
サムエルが息子を士師に立てようとしたとき、人々はそれを拒絶しました。
またパウロは次のように語っています。
「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて神によって立てられた」(ローマ13:1)
権威は神が立てるからこそ権威なのです。
たとえば教会に新しい牧師が立てられることも、神の導きの中にあります。
(2)権威は神の御心を果たすためにある
権威は人々の期待を満たすためにあるのでもなく、自分勝手に振る舞うためにあるのでもありません。
権威は神の御心を実現するために与えられます。
イエスもまた、神が立てた王でした。
そしてイエスは神の御心を理解していたからこそ、十字架を受け入れられたのです。
(3)権威ある者のために祈る
パウロは言いました。
「すべての人のために、また高い地位にある人のために祈りなさい」(Ⅰテモテ2:1)
たとえ権威ある人が間違っていても、悪口を言うことは正しい姿勢ではありません。上司の悪口を言う社員、先生の悪口を言う学生は正しい道を歩んでいません。
権威ある者が間違っていても、自分は正しいことを行うべきです。迫害する者のためにも祈る姿勢が求められます。
もし耐えられないなら、悪を行うよりも離れる方が良いのです。
ダビデもサウルから逃げましたが、神が立てたサウルに手をかけることはありませんでした。
3.まとめ
① 権威は神様が選ぶものであり、人間が立てた権威は長続きしない。
② 権威は神様の御心を果たすために与えられたものであり、人間の欲望のためではない。
③ 権威ある者のために祈ろう。もし難しいなら、悪口を言うより離れる方がよい。


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