20241210早天祈祷会
聖書:使徒行伝3:11-16
題目:奇跡の力はどこから?
賛美:190番、200番
説教:高曜翰 副牧師
場所:大阪中央教会
1.本文解説
① 「なぜ私たちを見るのか」
癒された足なえの男は、ペテロとヨハネに付きまとっていました。そのため人々は非常に驚き、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊に駆け集まって来ました。
それを見たペテロは言いました。
「イスラエルの人たちよ、なぜこのことを不思議に思うのか。私たちが自分の力や信心であの人を歩かせたかのように、なぜ私たちを見るのか。」
ここでペテロは「イスラエルの人たちよ」と呼びかけます。それは彼らに、アブラハム、イサク、ヤコブの神を思い出させるためでした。
当時のユダヤ人の考えでは、「信仰が強い人は奇跡を起こす」と思われていました。神は信仰の強い人の願いを無視できない、という理解です。
しかしペテロは、自分たちの信仰が強いから癒せたのではない、と語ります。ペテロはかつてイエスを見捨てて逃げた人物でした。自分の力や信心を誇れる立場ではありませんでした。
② イスラエル人の罪の指摘
ペテロは続けて、イスラエルの罪をはっきりと指摘します。
アブラハム、イサク、ヤコブの神が遣わされたイエスは聖なる方でした。また、ローマ総督ピラトが釈放しようとしたことからも、正しい方でした。それにもかかわらず、彼らはそのイエスを拒みました。
彼らは人殺しの男、イエス・バラバの釈放を求め、いのちの君であるイエス・キリストを殺しました。命を奪う者を助け、命を与える方を殺したことが彼らの罪でした。
しかし、人間の罪の行動の中にあっても、神の計画は進められていました。神はイエスを死者の中からよみがえらせました。そしてその証人が、今ここに立っているペテロたちであると語ります。
③ 信仰によって癒された
ペテロはさらに明確に語ります。
この癒しは、ペテロの強い信仰によるものではありません。足なえの男がイエスの名を信じたことを通して、イエスご自身が癒されたのです。
だからこそ、ペテロたちを見て驚く必要はありません。本当に驚くべきことは、イスラエルが殺したイエスの力が、今ここに現れているという事実です。
真の指導者は、奇跡を自分の信仰の力だとは言いません。ペテロは自分を、イエス・キリストを伝える道具と位置づけました。
信仰とは、奇跡を見たり体験したりすることではありません。神の言葉を聞くことによって与えられるものです。
2.適用
① 決して誇らない
ペテロは自分の信仰を誇りませんでした。イエスの昇天後の彼は、以前とはまったく違う人になっていました。
奇跡は、私たちの信仰を通してイエスが働かれるから起こります。そしてそれは、神の栄光のためです。もし私たちが自分を誇るなら、その意味は失われてしまいます。
神の奇跡は、私たちを誇らせるためにあるのではありません。
「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」
— コリント人への第一の手紙 4:7
「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」
— コリント人への第一の手紙 1:28-29
② 強くなろうとしない
傲慢なイスラエル人は、イエス・キリストではなく、イエス・バラバを選びました。彼らは間違った選択をしたにもかかわらず、自分たちは正しいと信じていました。
「自分たちが一番だ」という考えが、彼らを傲慢にしました。自分で何でも判断できる一人前になった、という考え方は危険です。
神は、学のない漁師であったペテロを用いました。ペテロは、自分には何も誇れるものがないことを経験的に知っていました。だからこそ、神に頼り、頼り続けたのです。
この世では、誰にも頼らず何でもできる人が一人前とされます。しかし、クリスチャンにとっての一人前とは、最初から最後まで神に頼ることです。
「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
— ピリピ人への手紙 4:13
③ 人を変えるのは神の言葉
奇跡は、人々の注意を集めるきっかけにすぎません。大切なのは、その後に神の言葉を語ることです。
「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」
— ローマ人への手紙 10:17
信仰を育てたいなら、聖書を読み、聖書の言葉を聞かせることです。奇跡が人を変えるのではなく、神の言葉が人を変えます。
3.まとめ
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誇らない。
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強くなろうとしない。
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信仰を育てるのは奇跡ではなく、神の言葉である。


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