20241211早天祈祷会
聖書:使徒行伝3:17-21
題目:罪を拭き取るお方
賛美:195番、205番
説教:高曜翰 副牧師
場所:大阪中央教会
1.本文解説
① 「兄弟たちよ」― 無知による罪
ペテロはここで、「イスラエルの人々」とは呼ばず、「兄弟たちよ」と語りかけています。前者が正式な呼称であるのに対し、「兄弟たち」はより親密な呼び方です。責め立てるのではなく、回復へと導こうとする語りかけです。
彼は言います。あなたがたも指導者たちも、知らずにあのようなことをしたのだ、と。つまり、彼らの罪は無知によるものであったと指摘しています。
主イエスも十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と祈られました。知らずに犯した罪も確かに罪です。しかし、知らずに犯した罪は赦されます。反対に、知りながら犯す罪は深刻です。たとえばサタンは、神を知りながら逆らいました。
ユダヤ人たちは無知のゆえにイエスを拒みました。彼らはイエスを王ではなく、詐欺師のように考えました。そして、イエスを殺すことが神のためになるとさえ思っていたのです。
② 神のご計画としてのキリストの受難
しかしペテロは続けます。神はすべての預言者たちの口を通して、キリストが苦しみを受けることを前もって語っておられた、と。
ユダヤ人たちは知識がありませんでしたが、神は完全な知識をもって働いておられました。イエスがメシアであることは突然の出来事ではなく、はるか昔から計画されていたことでした。
ユダヤ人はキリストを苦しめましたが、キリストはなおもご自分をメシアとして示されました。そして驚くべきことに、ユダヤ人自身も救いの対象とされているのです。
③ 罪を拭い去っていただくために悔い改めなさい
ペテロは語ります。「自分の罪を拭い去っていただくために、悔い改めなさい。」
当時のインクは、書いても湿った布で拭き取ることができました。「拭い去る」という言葉は、そのように完全に消し去ることを意味します。
なぜ悔い改めが必要なのでしょうか。それは「慰めの時」が来るからです。それはイエス・キリストの再臨、そして万物が回復される時です。これはすでに預言されていたことです。
キリストは死んで終わりではありません。必ず再び来られます。
2.適用
① 無知よりも、悔い改めないことが問題
この世は無知であることを恥とし、知ったかぶりをします。人に馬鹿にされるのが怖いからです。
しかし、もっと恥ずかしいことは、悔い改める機会を失うことです。悔い改めれば赦されるのに、知っているふりをすることで赦しを拒んでしまうのです。
失敗することが恥なのではありません。失敗を認めないことこそ恥です。大切なのは悔い改めです。
② 罪を拭い去るのは神である
私たちの努力とは関係なく、罪を拭い去るのは神ご自身です。
幼い頃の罪をいつまでも引きずり、長い年月が過ぎても罪悪感から解放されないクリスチャンがいました。なぜでしょうか。
イエスが消し去り、神が「もう覚えていない」と言われているのに、自分は覚え続けている。そこに問題があります。自分を神以上の存在にしてしまっているのです。
カトリック教会の屋根にある風見鶏は、ペテロが鶏の声を聞いて悔い改めた出来事を思い起こさせる象徴です。しかし聖書には、ペテロが過去の裏切りを思い出して落ち込み続けていた姿は記されていません。彼は新しく生まれ変わり、人々の前で大胆に説教する者となりました。
過去の悪い記憶を思い出して落ち込むのではなく、必ずイエスとセットで思い出すことが大切です。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
— コリント人への第二の手紙 5:17
③ 再臨の時、私たちは慰められる
イエス様は再び来られます。その約束を聞くたびに、私たちの心には希望が湧き上がります。
「生きるのも死ぬのも、ただ一つの慰めは、私が私自身のものではなく、イエス・キリストのものであること。」これは ハイデルベルク信仰問答 の告白です。
再臨の時は、叱責の時ではなく、慰めの時です。その日を待ち望み、備えて生きることがクリスチャンの姿です。
3.まとめ
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無知であること以上に、悔い改めないことが問題である。悔い改めましょう。
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罪を拭い去るのは私ではなく神である。拭い去られたことを認めましょう。
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再臨の時、私たちは慰められる。再臨を待ち望む生活を送りましょう。


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