20241212早天祈祷会
聖書:使徒行伝3:22-26
題目:契約の子
賛美:310、429
説教:高曜翰 副牧師
場所:大阪中央教会
Ⅰ.本文解説
1.モーセはイエスについて預言した
ペテロはここで、申命記18章18節以下を引用しています。「主はあなたがたのために、わたしのような預言者を、あなたがたの兄弟の中から立てられる。その預言者の言うことは皆聞きなさい」という御言葉です。
ユダヤ人の認識では、モーセは最大の預言者でした。そしてメシアは「第二のモーセ」として来られると考えられていました。ペテロは、まさにその預言がイエス・キリストにおいて成就したと語っているのです。
では、預言者の言葉が本当に主の言葉であるかどうかは、どのように判断するのでしょうか。それは「成就したかどうか」によります。イエスは十字架にかかり、そして確かに復活されました。預言は成就しました。
それにもかかわらず、なぜ人々はモーセの言うことを聞かなかったのでしょうか。モーセは「その預言者に聞き従わない者は、民の中から滅ぼされる」と語っていました。にもかかわらず、彼らはイエスを拒みました。
2.サムエルもまたイエスについて預言した
ペテロはさらに、「サムエルをはじめ、その後に続いて語ったすべての預言者も、この時のことを予告した」と言います。具体的にどの箇所を指すのかは明確ではありませんが、サムエル記下7章12〜14節のダビデ契約が考えられます。
一見すると、これはダビデの子孫についての約束のように見えます。しかし、イエス・キリストの登場によって、この預言は完全に成就しました。すべての預言者は最終的にイエスを指し示しているのです。
ユダヤ人たちは「預言者の子」でありました。彼らは長い歴史の中で、神からメシアの到来について繰り返し聞いてきたはずです。それでもなお、目の前に来られたイエスを認めることができませんでした。
3.アブラハムへの約束の成就
ペテロは創世記12章3節を引用します。「地上のすべての民族は、あなたの子孫によって祝福を受ける」という約束です。
ユダヤ人たちは契約の子であり、祝福の存在でした。彼らは祝福を受けるだけでなく、祝福を与える存在として選ばれていました。
しかし今、彼らは祝福を受ける状態にすらありませんでした。そのためにイエスは来られました。罪から立ち返らせ、祝福にあずからせるためです。イエスはまずユダヤ人のために遣わされた救い主であることを、ペテロは強調しています。
Ⅱ.適用
1.イエス・キリストを知るために聖書がある
ヨハネ5章39節でイエスはこう言われました。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」
ここでの「聖書」とは旧約聖書のことです。イエスは受肉前から確かに存在しておられました。モーセも、サムエルも、ダビデも、アブラハムも、まだ来られていないイエスを信じていました。その信仰によって救われたのです。彼らが優秀だったからではありません。
ペテロは、すでに来られたイエスを信じて救われました。ユダヤ人と同様に、私たちも来られたイエス・キリストを信じることで救われます。
2.祝福ではなく「契約の子」としてイエスを知る
ユダヤ人たちがイエスを救い主として認識できなかったのは、聖書を正しく読んでいなかったからです。彼らはメシアご自身ではなく、自分たちの祝福を求めていました。
しかし祝福は、神を第一としたときに後からついてくるものです。聖書に祝福だけを求めるのは、神を利用して自分が得をしようとする姿勢です。それは両親を利用して利益を得ようとする子どもと同じです。
大切なのは、祝福を求めることではなく、契約の子としてイエスを知ることです。
3.契約の子として生きる
重要なのは、自分に益があるかどうかではありません。契約の子として生きているかどうかです。
自分がどれだけ奇跡を経験したか、どれだけ祝福を受けたかで終わってはなりません。そのすべてを与えてくださった神の子どもとしてのアイデンティティが大切です。
判断基準を自分に置くのではなく、神に置くこと。それが契約の子として生きる姿です。
Ⅲ.まとめ
第一に、聖書はイエス・キリストを知るために与えられています。
第二に、祝福を求めるのではなく、契約の子として生きることが大切です。
第三に、自分の益ではなく、契約の子としてのアイデンティティに立って生きましょう。


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