20250722早天祈祷会
聖書:使徒20:32–38
題目:与える教会
賛美:460、461
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
1.本文解説
(1)神の御言葉に委ねるパウロ
パウロはここで、「今、あなたがたを主とその恵みの言葉にゆだねる」と語ります。
彼はエペソ教会の人々をさらに訓練したいという思いを持っていました。
しかし、自分はエルサレムへ向かわなければならないため、これから先は教会を完全に神に委ねる決断をします。
ここには重要な真理があります。
それは、人を育てるのは人ではなく、神の御言葉であるということです。
救いの完成もまた、人の力ではなく御言葉によるのです。
(2)利得を求めない奉仕
パウロは続けて、「私は人の金や銀や衣服を欲しがったことはない」と語ります。
これは、彼の奉仕が経済的な利益を目的としたものではなかったことを意味しています。
牧会や奉仕は、決して利得のために行われるべきではありません。
むしろ彼は、自分の誠実さをここで強調しています。
さらにパウロは、自分の手で働き、自分と仲間たちの生活を支えてきたと語ります。
当時のギリシャ社会では、教師が報酬を受けることは一般的でした。
しかし彼は、聖徒たちに負担をかけないために、自ら働く道を選びました。
その姿勢を、彼は誇りとしていたのです。
(3)「与える幸い」という主の言葉
パウロは、「受けるよりは与えるほうが幸いである」という主イエスの言葉を思い起こさせます。
この言葉は福音書には直接記録されていませんが、
マタイ10章8節の「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という教えと同じ精神です。
ここでパウロは、指導者の生き方は「与えること」にあると示しています。
さらにこれは、現代においてもある意味で「法則」として知られています。
受け取ることによる喜びは長く続きませんが、与えることによる喜びはより深く、長く続くと言われています。
受ける喜びは、さらに大きなものを求め続けますが、
与える喜びは、その行為自体に満足を見出すことができます。
つまり、「与えることによって幸せを得る」というのは、人間の本質に根ざしたものなのです。
(4)祈りと涙の別れ
パウロは語り終えると、人々と共にひざまずいて祈りました。
当時、祈りは立って行うのが一般的でしたが、
ここでひざまずいたのは、彼の深い感情と謙遜の表れです。
人々は皆、激しく泣き、パウロの首を抱いて何度も口づけしました。
そして「もう二度と会えない」という言葉に心を痛めながら、彼を船まで見送りました。
ここには、愛と信頼によって結ばれた教会の姿があります。
2.適用
(1)与えることを生きる教会
私たちは、「与えることが幸いである」という真理を、行動によって示す教会にならなければなりません。
パウロはエペソ教会に対して、受けることではなく、与えることに集中しました。
その結果、別れの時には涙を流して抱きしめ合う関係が生まれました。
また、お互いのために祈り合う教会が築かれたのです。
(2)イエスの模範
イエスもまた、弟子たちに「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と教えられました。
イエスは、何かを受け取るためではなく、ただ与えるために来られた方です。
その生涯は、与え続ける人生でした。
そして十字架と復活の後、弟子たちはイエスのために命をかけて福音を伝える者となりました。
イエスは、ご自身がいなくなった後も、祈りによって生きる弟子たちを育てられたのです。
(3)大阪中央教会への勧め
大阪中央教会もまた、「与えること」に集中する教会であるべきです。
良い教会は、人を用いるとき、その人から何かを得ることよりも、
その人の成長のために何を与えられるかを考えます。
その人が利益になるかどうかで判断することには注意が必要です。
イエスもパウロも、弟子を育てる際に自分の利益を基準にはしていませんでした。
3.まとめ
パウロはエペソ教会において、自らの牧会の生涯を通して、
「受けるより与えるほうが幸いである」という真理を示しました。
それは言葉だけでなく、彼の生き方そのものでした。
私たちもまた、この真理を聖徒たちに伝えていきましょう。
言葉だけではなく、私たち自身の行動を通して、「与える幸せ」を示していきましょう。
そうするならば、エペソ教会の長老たちのように、
聖徒たちは牧会者を、涙と祈りによって支え、慰めてくれるようになるのです。


댓글0개