20250802土曜祈祷会
聖書:イザヤ6:1–13
題目:イザヤ―私を遣わしてください
賛美:325
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
1.預言者イザヤとは
① イザヤの人物像
イザヤという名前は「主は救い」という意味を持っています。
彼は南ユダ王国において、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤという四人の王に仕えた預言者でした。
彼は王族の出身であったと考えられており、王宮に自由に出入りすることができる立場にありました。
タルムードによれば、ウジヤ王の親族であったとも言われています。
また、その語り口は非常に詩的で、洗練されたヘブライ語表現を用いていることからも、教養の高さがうかがえます。
当時の国際情勢は不安定であり、アッシリア、バビロニア、エジプトの勢力バランスが崩れつつありました。
そのような中で、約52年間続いた安定した治世をもたらしたウジヤ王が亡くなります(前740年頃)。
これはユダにとって大きな転換点でした。
2.神の幻による気づき
① 王の死と神の王座
ウジヤ王の死によって、イザヤは大きな衝撃と不安を覚えました。
しかしその時、彼は幻の中で「真の王」である神が王座に座っておられる姿を見ます。
この経験を通して、彼は自分がいかに人間の王に頼っていたかに気づかされました。
② 神の聖さと自分の罪
イザヤはその神の圧倒的な聖さを目の当たりにします。
セラフィムたちは「聖なる、聖なる、聖なる」と叫び続けていました。
この三度の「聖なる」は、創造主と被造物との間にある決定的な隔たりを示しています。
その光景を見たとき、イザヤは自分の汚れに愕然としました。
自分がどれほど汚れた思いとことばを持っていたかに気づいたのです。
③ 神による清め
すると、燃える炭火がイザヤの口に触れ、彼は清められました。
これは彼自身の努力によるものではなく、神様の一方的な恵みによるものでした。
ここから分かることは、
私たちが清められ、価値ある存在とされるのは、神様の働きによるということです。
そして、王座に座るべき方は人間でも自分自身でもなく、ただ神様だけであるということです。
また、私たちが比べるべき相手は人ではなく、神様であるということも示されています。
3.召命への応答
① 「私を遣わしてください」
神は「誰を遣わそうか」と語られました。
それに対してイザヤは、「私がここにおります。私を遣わしてください」と応答します。
ここに召命の原点があります。
赦された者が、応答する者へと変えられるのです。
② 結果ではなく従順
イザヤは「いつまでですか」と問いかけます。
しかしそれは結果を求める問いではなく、
どれほど困難であっても従うという姿勢を示すものでした。
③ 困難な使命
神はイザヤに、聞かず、見ず、心を閉ざした民に語り続けるよう命じます。
それは非常に困難な使命でした。
人々は悔い改めず、状況はすぐには変わりません。
それでも語り続けるように命じられたのです。
また、イザヤはユダの民を「ソドムの民」と呼び、
アッシリアを「神の怒りの杖」と表現しました。
これは神の厳しい裁きの宣言でもありました。
4.イエス・キリストの従順 ― 完全な模範
① 不完全なイザヤの従順
イザヤは弱さを持ちながらも、神の召しに従いました。
自分の考えを手放し、危険な道へと進んでいきました。
② 完全な従順であった方
しかし、完全に従順であった方がおられます。
それがイエス・キリストです。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。
その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
(ピリピ2:6–8)
イエスはご自分の権利や栄光を手放し、私たちのために最も低い道を歩まれました。
③ 神が求めているもの
神が求めておられるのは、
大きなビジョンを持つ人ではなく、
小さな御声にも従う誠実な心です。
5.結論
私たちもまた、
「私を遣わしてください」と言える者へと変えられていきたいと思います。
それは、自分の力によってではなく、
神に赦され、清められた者としての応答です。
神の前にへりくだり、御声に従う人生を歩んでいきましょう。


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