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1サムエル15:22-23

サウルの失敗

 

1.怖いもの

皆さんは何を恐れますか?子供のころはお化けが出るのではと思い、暗闇を怖がった記憶があります。年を取るにつれて、地震や病気、事故など怖いものが変わっていきますが、一生を通して多くの人々が恐れるものがあります。それは人です。小学生高学年ころから人の目を気にするようになり、人の意見に左右されるようになります。大人になり自立すると、次第に人の目を気にしなくなっていきますが、自立できず人に頼りすぎる人は、人の目を気にし恐れるようになります。どうすれば恐れを取り除くことができるか、サウルの失敗から学ぶことができます。

 

2.サウル王

サウルはイスラエルの最初の王です。まだ神の時ではありませんでしたが、人々が強く望んだので神様はサウルを王として立て、人々に与えられました。サウルは、背が高く、美しく、謙虚で、知恵があり、連戦連勝の王でした。人の目から見たサウルは完璧な人物でした。しかし実際は、劣等感と優越感の間を揺れ動く人物でした。サウルの劣等感の原因は、出身が最小部族のベニヤミン族の中でもソドムとゴモラのように腐敗したギブア出身だったことでした。そして優越感の原因は、自分が神に選ばれた王であることでした。サウルは王として君臨すると、地位に固執するようになり、人々が離れていくことを恐れるようになりました。また、自分の思い通りにいかないと息子のヨナタンにすら当たり散らすようになりました。

 

3.サウルの失敗

ある日、神から命令が下ります。「アマレクを打ちすべてを聖絶せよ。男も女も子供も乳飲み子も牛も羊もラクダもロバも殺せ(15:3)」。アマレク人とはイスラエルがエジプトから出てきたときに、最初に攻撃してきた人々です。その卑劣さは神の怒りを買いました。神はかつてモーセにこのように言っています。「アマレクがしたことを忘れるな。神を恐れず、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたの後ろの落後者をみな切り倒したのである。アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない(申命記25:17-19)」。つまり、アマレク人とは神の目から見て、救いの見込みのない人々でした。サウルはイスラエルの王としてアマレク人を滅ぼさなければなりませんでした。

 

しかし、サウルは戦いに勝利した後、アガク王を生け捕りにし、羊や牛、子羊など上質な家畜を残しました15:8-9)。神の命令に従わなかったのです。なぜこのようなことをしたのでしょうか?アマレク人がかわいそうに思えたからでしょうか?違います。サウルは子供や乳飲み子も殺しました(15:8)。神様に生贄を捧げるためと言っていますが本当にそうでしょうか(15:15)?違います。サウルはもったいなかったから殺しませんでした(15:9)。そして民も神の命令よりも富に目がくらんでいました(15:9)。本当ならサウルは王として、神の教えを守るようにしかるべきでした。しかし、サウルはそうしませんでした。その心には、神を恐れる心ではなく、自分の利益を優先しと人を恐れる心があったからです。その高慢な態度が、自分のために記念碑を建てるという行動に現れています(15:12)。

 

4.サムエルの叱責

戦いの後、サウルは主の言葉を守ったとサムエルに嘘をつきました。しかしサムエルは事前に神様からすべてを知らされており、サウルのしたこととその心の内を知っていました。サムエルが問い詰めると、サウルは自分は神に従ったが、民が従わなかったと責任をなすり付けています(15:21)。ここでサムエルはサウルの間違いを2つ指摘します。

 

1つ目は「聞き従うことは生贄に勝る」ということです(15:22)。神様はアマレク人を滅ぼすという神の計画を達成するため、神の民であるイスラエルを用いました。そのため神様の望むものは神の民としての従順な態度です。生贄ではありません。生贄は罪深い人間が、神の民として王である神と共に住むため手段であり、神様自身が生贄を欲しているわけではありません。それなのにサウルは神様が生贄を望む他国の神々と同じように誤解していたことが分かります。これは私たちの信仰生活にも当てはまります。礼拝を捧げ、献金を捧げ、奉仕すれば神様が祝福してくださるという態度は間違いです。神様は労働力やお金を欲しているのではありません。神様を王として認め、み言葉に従う私たちの従順な心を望んでいます。私たちが神の民として生きるとき、祝福は自然に与えられるものなのです。

 

2つ目は「そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪」ということです(15:23)。神に従わないということは、偶像礼拝と同じだということです。偶像礼拝とは何でしょうか?単に偶像を礼拝するという意味ではありません。偶像礼拝とは、他のものを神様よりも優先することです。つまり、神様の基準ではなく自分の基準に従う時、人は偶像礼拝の罪を犯しているのです。サウルは神の言葉よりも、民の言葉を選びました。神の考えよりも民の考えを優先しました。それは民によってあがめられる王としての自分を守るためです。神が自分を王として選んだ理由を誤解していました。神がサウルを選んだのは、他の人より優れているからとか、王として贅沢させるためではありません。神の代理人としてイスラエルを支配し、人々に神の民としての生き方を示すためです。これは私たちの信仰生活にも当てはまります。私たちは、たばこやお酒や刺青などが深刻な罪であると考えますが、そうではありません。神様の心よりも他の事を優先させることが大きな罪なのです。その偶像はお金だけではなく、夫や妻、子供、自分の場合もあります。神様が私たちに望むのは、神様を自分の人生の主人として認め、優先順位を置くことなのです。

 

残念ながら、サウルはサムエルの言葉を理解できませんでした。サウルは次のように言いました。「わたしは罪を犯しました。しかし今は私の民と長老とイスラエルとの前で私の面目を立てて下さい。どうか私と一緒に帰って主を礼拝させてください(15:30)」。悔い改めているように見えて、反省していません。神様との関係が壊れたことよりも、これから人との関係が壊れることを恐れているのです。サウルの中の優先順位は自分の体面であり人の言葉や態度のままでした。私たちもサウルと同じ過ちを犯していないでしょうか。人を恐れ、人に依存して生きる人は、サウルのように神様よりも人との関係を優先させているかもしれません。

 

5.イエス様

イエス様はどうだったでしょうか?「食いしん坊の大酒飲み(マタイ11:19)」と言われ、「取税人や罪人と食事(9:10)」をして悪い噂がたっても、人を恐れることなく、神様の言葉を宣べ伝えました。事実、取税人や罪人の列に並びヨハネのバプテスマを受けました。どんなときも神様を恐れ、神の御心通りになるように行動しました。それは全てにおいて優先順位を神様に置いていたからです。

 

パウロは「信仰から出ていないことはみな罪(ローマ14:23)」と言いました。つまり、私たちの人生の目的、行動の動機は神様から出るべきであり、優先順位を神様におくべきだということです。なぜなら、神様に優先順位を置かず、神様と関係のないことをするとき、人々は神様の力ではなく自分の力だけで行動しなければいけなくなるからです。神様を見ない人は、人を恐れるようになります。親が子を教えるとき、子を愛しすぎるあまり、私たちは神様が見えなくなる傾向があります。しかし、それでは、子も神様を見ず、人ばかりを気にして、人を恐れるようになります。どうか神様を思い出してください。神様を恐れ、優先順位を置くとき、私たちは人を恐れる必要がなくなります。なぜなら神様が助けてくれるからです。

 

6.結論

人を恐れる心はどこから来ますか?それは、私たちが神様に優先順位を置かないときにやってきます。神様以外のものに優先順位を置くとき、それが偶像となり、神様を見えなくさせます。偶像は人によって違います。ある人はお金だったり、息子だったり、自分自身だったりします。しかしその偶像によって、私たちは真の助け主を見失い、人を恐れるようになるのです。サウルの場合は王としての地位が偶像となっていました。その結果、自分の地位を守るために人を恐れ、罪を犯し、神様から王としての地位を取り上げられることになります。本当なら神様の教えに忠実なることで、人々を恐れる必要もなく、自分の王としての地位は神様が守られるはずでした。私たちの優先順位は何ですか?自分の思いではなく、神様の思いに優先順位を置くとき、神様は全て守ってくださいます。​ 

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