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迫害を乗り越えるために(詩篇57:1−3, 7)
고영수 2022-09-24 추천 0 댓글 0 조회 805

20220925 日曜午後礼拝

聖書:詩篇57:1−3, 7

題目:迫害を乗り越えるために

内容:ダビデの経験をもとに、どのように迫害を乗り越えるか学ぶ。

賛美:福音賛美160、359、賛美歌542

説教者:高曜翰 講道師​

 

1.クリスチャンへの迫害

 クリスチャンへの迫害はなくなりません。「オープン・ドアーズ」というキリスト教団体の調査報告「ワールド・ウォッチリスト」によると、2022年はクリスチャンへの迫害が過去最悪の水準になっているそうです。7人に1人のクリスチャンが信仰のために命の危険のある国に住んでいます。日本は安全な場所とされていますが、程度は違えど、日本に住む私たちもキリストのために迫害を受けます。残念ながら、迫害がなくなることはありません。聖書にもそう書いてあります(cf. Ⅱテモテ3:12)。しかし迫害を受けたからと言って、全ての人が信仰を捨てるわけではありません。

 なぜ信仰を捨てないのでしょうか。それは、迫害は一時的なものであり、迫害の先には大きな報酬があることを知っているからです。イエスは「私のために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」と教えています(マタイ5:11-12)。つまり、迫害は永遠の命を受けることのできる証明と言えます。またイエスは「わたしは平安をあなたがたに残して行く。私の平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」と言いました(ヨハネ14:27)。それは神様が共にいるという平安です。これ以上の平安はありません。つまり、私たちはこの世でもあの世でも神様が与える真なる平安を味わうことができるのです。

 確かに、信仰を捨てれば、迫害による苦しみは去ります。しかし、罪の影響による苦しみは受け続けます。そして罪のための苦しみは当然の報いであり何も生み出しません。苦しみなく生きている人もいるかも知れませんが、結局は悪魔と共に永遠に火の海に投げ込まれる者たちであり、そこには神の愛も義も、永遠の命もありません。どのみち苦しみはやってきます。信仰を捨てて平安になったように見えても、それは一時的なものです。必ず終わりがやってきます。そしてその平安は未来のない平安であり、むなしいものです。だから、迫害を受けて信仰を捨てることはとてももったいなく残念なことなのです。信仰を捨てることで得られる安らぎは一瞬ですが、信仰を守り通すことで得られる安らぎは永遠につながることを私たちは忘れてはいけません。

 

2.詩篇57篇について

 そうは言っても、迫害は肉体的にも精神的にもつらいものです。誰でも乗り越えられるものではありません。良い環境、輝かしい未来が待っていると分かっていても、勉強ができずつまづくこともたちがたくさんいるように、迫害につまづき教会を去っていくクリスチャンがいます。学生たちが勉強の仕方を学ぶ必要があるように、クリスチャンもまたクリスチャンとしての生き方を学ばなければなりません。今日は詩篇57篇のダビデの歌から学びたいと思います。詩編57篇はダビデがサウルから逃れるためにエンゲデのほら穴で隠れている時の出来事を歌ったものだと言われています。ダビデはサウル王に忠実な僕でした。ゴリアテという巨大な敵を打ち倒し、琴の音でサウルの心を癒しました。そして近衛隊長にもなりました。またサウルの息子ヨナタンとは唯一無二の親友となり、娘のミカルとは夫婦の関係でした。サウルにとってダビデは身近でた大切な存在のはずでしたが、サウルはダビデを憎み、殺そうと執拗に追いかけました。それはダビデによって自分が王としての地位を失うことを恐れたからです。無実の罪のためにダビデは10年もの間、逃亡生活を送っていました。命を狙われ続ける間、心は不安になり、仲間さえも疑わしくなり、落ち着いて眠れなくなります。とても身近な人に迫害を受けたダビデですが、絶望的な状況から抜け出し、神様に賛美を捧げるようになります。彼はどうやって困難を克服したのでしょうか。詩篇57篇は苦難に打ち勝つための秘訣を3つ教えています。

 

3.我が避け所なる神(1節)

 まず1つ目は、主に助けを求めて下さい。人にではありません。ダビデはサウルに命を狙われましたが、サウルに命乞いをしませんでした。また、ペリシテ人の地に潜むことはあっても、他人の力を頼りにしたことはありませんでした。「私を憐れんでください」と神様に呼び求めたのです。ダビデは魂から神様に助けを求めました。魂からとは、見せかけではなく、心から、全てを持って神様に降伏するという意味です。そして「あなたの翼の影をわたしの避け所とします」と告白しています。つまり神様に完全に頼れば、親鳥に包まれているひな鳥のように安心出来るということです。残念なことに、私たちは危険が迫るとき、ついつい他の物に頼ろうとします。自分よりもその相手よりも強そうな人に助けを求めたり、あろうことか問題の相手にすがろうとする場合もあります。しかし残念ながら、それで私たちが完全に平安を取り戻すことはありません。なぜなら人間の力には限界があり、人間は裏切る可能性があり、捕食者は獲物が死ぬまで攻撃をやめないからです。頼れるのは神様だけです。親鳥は命がけでひなを守りますが、なぜでしょうか。それは命をかけて産んだ子供たちがとても大切だからです。だから親鳥は命がけで自分よりも大きな敵とも戦います。同じように、命を捨てて私たちを愛してくれたイエス様は、私たちのために命がけで戦い、守ってくれます。他のものではなく、命を捨てて私たちを救ってくれた神様だけに頼りましょう。

 

4.全ての事を成し遂げる神(2節)

 2つ目に、主がされるままに任せて下さい。あれこれ人間的な知恵で解決しようとしないでください。ダビデは「私のために全ての事を成し遂げられる神」と呼んでいます。自分のために必要なことは、自分ではなく主がなされると告白しているのです。すべて神様がなされるので私たちは邪魔してはいけません。私たちにできることは最後まで神様を信じて従うことです。父親の仕事のやり方や、母親の料理の仕方に口出しする幼子がいないように、私たちも神様のやり方に口を出すべきではありません。父親の帰りを、母親の料理が出て来るのを待っている幼子のように、いい子にして待っていましょう。ダビデはサウルを殺せる機会がありましたが、神様が油を注いだ者を殺すことはできないと言って、見逃しました。そして神様のされることに任せたのです。その時にサウルの服の裾を切りとったのですが、それに対して後悔をしています。ダビデはいかに早く問題を解決できるかではなく、神様に対して忠実な僕であることを優先させました。自分のしたいことではなく、神様の喜ばれることを優先したのです。イエス様も同じです。自分で新しい事をしようとはせず、十字架の死に至るまで神様の計画に従順でいました。また、1節で「滅びのあらしの過ぎ去るまでは」とダビデが歌っていますが、迫害のあらしはいつまでも続きません。必ず過ぎ去る時が来ます。どうか焦らず、人間的な考えではなく、神様の忠実な僕として、完全に成し遂げられる神様に全てを任せて下さい。

 

5.いつくしみとまこととを送る神(3節)

 そして3つ目に、迫害する相手にも愛と誠実さを持って接してください。ダビデは「神はそのいつくしみとまこととを送られ」「私を救う」と言っています。そして「私を踏みつける者を辱められます」と続けています。つまり、いつくしみとまこととをもって神様が公平に裁く時が必ず来るということです。神様は虐げられる者の叫びを無視するような方ではありません。神様は愛と義の神様です。ソドムとゴモラによって苦しむ者たちの声を聞き立ち上がりました。エジプトに苦しめられるイスラエルの民の叫び声を聞いて立ち上がりました。愛も義もない悪者たちがはびこっているのは、彼らの力が強いからではありません。神の裁きの時がまだ来ていないからです。時が来れば彼らは滅ぼされます。私たちが自ら復讐する必要はありません。強さや弱さの問題ではなく、神の愛と義がそこにあるかどうかが問題なのです。本当にかわいそうなのは迫害されている私たちではなく、迫害をしている者たちです。私が神学校で学び始める時、神学を学ぶ者の心構えとして1冊の本を読まされました。そこには「強くなろうとするな」とありました。最初は意味がよくわかりませんでしたが、神学校でいろんな人と触れ合うことで理解できました。神様の御言葉を学ぶことは、神様について知り、神様とより近い関係になるためです。神の愛を十二分に感じるためとも言えます。しかし、たくさんの知識を身に着けたり、良い成績を収めたりすると、人を優劣で判断するようになり、人を裁くようになります。つまり、「強くなろうとするな」とは、神の言葉を学ぶことで、自分の強さを表す人間になるのではなく、全ての人に神の愛を表す人間になるための言葉だったのです。神様は私たちにこの世の強さを求めていません。イエス様は「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)と教えています。神様は私たちに神の愛と誠実さを表すことを望んでいます。そしてイエス様は十字架の死ぬ時も誰も恨んだりしませんでした。むしろ自分を十字架にかけた人々のためにいのりました。だから私たちは迫害する相手にすら、神様の愛と誠実さを示すべきなのです。

 

6。迫害の中ですべきこと

 私たちが苦しみの中にいるときにすべきことは3つです。1つ目は、主のもとに行くことです。人を頼ってはいけません。神様以上に命をかけて私たちを守ってくださる方は他にいないからです。2つ目は、主にすべてを任せることです。人間の知恵に頼れば必ず失敗します。聖書の言葉通りにしてください。3つ目は、愛と義とを持って接してください。強くなる必要はなく、自分で復讐してはいけません。神様は愛と義とを持ってすべてを裁かれます。この世で苦しみが完全になくなることはありません。しかし苦しみの中でも神様は素晴らしい平安の時間を与えられ、永遠の平安を約束されます。この世の物をつかもうとするのではなく、神様にしがみ続けましょう。​ 

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