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われらは主のもの(詩篇100:1-3)
고영수 2022-10-08 추천 0 댓글 0 조회 782

20221009 日曜午後礼拝

聖書:詩篇100:1-3

題目:われらは主のもの

内容:私たちの人生の主人が神様であることを知らずに、捧げることはできない。

賛美:賛美歌249、福音讃美歌398、178

説教者:高曜翰 講道師​

 

1.知ることの大切さ

 行動経済学者ダン・アリエリーによると、運転免許証の臓器提供賛同者の数がヨーロッパの国ごとに大きく違うという調査結果が出ています。デンマークやオランダ、イギリス、ドイツでは10−30%と非常に低く、オーストリア、ベルギー、フランス、ハンガリー、ポーランドなどではほぼ100%近い数字となっています。この違いの原因は何なのか、文化の違いや、宗教的な理由など様々な理由をいくら考えても答えは出ませんでした。しかし、臓器提供のアンケート用紙を見れば全てが解決しました。賛同率の低い国では「臓器提供に参加したい方はチェックを入れて下さい」という文面だったのに対し、賛同率の高い国では「臓器提供に反対の方はチェックを入れて下さい」という文面だったのです。どちらの文章においても、多くの人がチェックを入れなかったため、前者の文面の国では参加率が低く、後者の文面の国では参加率が高くなったのです。この調査結果は、我々は自分の意志で決定しているように見えても、周りの状況に影響されているという答えを表しているものですが、別の見方をすると、あれこれ分析はじめる前に、まず知るべき大切な情報がある、ということも教えています。言い換えれば、行動することも大事だが、まずは知ることが大事だということです。

 

2.マルタとマリヤ

 ルカによる福音書10:38-42を見るとマルタとマリヤのお話が出てきます。マルタとマリヤにはラザロという弟がいて、一緒にベタニヤという町に住んでいました。イエス様はこの場所が気に入ったみたいで度々訪れていたようです。マルタはイエス様と弟子たちをもてなすためにせっせと料理を準備していました。この姿は当時の伝統的な婦人の姿です。しかし一方で、妹のマリヤは、もてなす準備をせず、イエスの足元で教えを学んでいたのです。この姿は当時の伝統的な婦人の姿からは外れており、教師になることが出来ない女性が教えを学ぶ姿は、当時では異質でした。マリヤの怠惰にも見える態度に苛立ちを覚えたマルタは、マリヤに注意をしないイエス様に「妹が私だけに接待をさせているのを、なんとも思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください」と不満をぶつけました。そんなマルタにイエス様は「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ」と答えました。イエス様の言う「無くてはならない一つだけの物」とは何でしょうか。マルタとマリヤのお話をすると、「奉仕」も「学ぶこと」も両方大切で、マルタの自己義認と他人批判の態度をイエス様は批判されたと結論付けられることがあります。それも間違ってはいないのですが、私たちが目を逸らしてはならないのは「無くてはならない物は一つだけ」とイエス様がおっしゃっているという事実です。最も大切なのは、マリヤの選んだ「神様を知ること」です。マルタの不満は、主が本当に望んでいることが何か知らなかったところから来ています。奉仕することももちろん大切ですが、優先順位でいうなれば、「神様を知ること」以上に大切なことはありません。これは私たちにとって忘れてはいけないことなのです。

 

3.羊飼いと羊

 クリスチャンとして行動する時、まず私たちの人生の主人は神様であるということを知らなければなりません。なぜなら、自分を主人だとして行動するのと、自分を僕だとして行動するのとは、全く違うからです。自分の主人が行動するのと自分が神様は人間を造り、守り導くお方です。それはまさに羊飼いと羊のような関係です。羊は臆病で、か弱くて、すぐに道に迷い、倒れたらすぐには起き上がれず、そのくせ頑固で、しかし一人では生きていけない存在です。羊にとってなくてはならない存在が羊飼いなのです。同じように人間も、臆病で、か弱くて、すぐに道を失い、倒れたらすぐに起き上がれず、そのくせ頑固で、一人では生きていけない存在です。羊が自分を自分で導こうとすれば、すぐに道に迷い、命を失います。そうならないためにもみちびこうとを私たちには神様が必要なのです。

 一方で羊飼いは、羊を毎日餌場に連れて行って食べさせ、帰るまで導きます。そして、命をかけて獣から羊を守ります。そして1匹1匹世話をして健康状態を確認します。神様も同じです。私たちに日曜の糧を与えて下さり、見守ってくださいます。私たちの命のために、イエスキリストを犠牲にされました。そして私たち一人ひとりを覚え、気にかけて下さいます。羊の幸せが羊飼いなしには成り立たないように、人間の幸せも神様なしには成り立ちません。

 羊は自分の仲間たちが等間隔で適度に離れている姿を見ると安心ます。仲間が密集していると、敵が近くにいると感じ不安になります。逆に仲間の姿がほとんど見えないと不安を感じます。しかし、羊たちが等間隔でいられるのは羊飼いの存在が不可欠なのです。人間も同じです。人は、持っている物が多かったり、人間関係が良好だと安心します。しかし、そうなっているのは、私たちを守っている神様のおかげだということを忘れてはいけません。また、羊たちは自分たちの足が届かないあごの部分を触ってやるととても喜びます。しかし、このような平安は羊飼いなしには得られません。私たち人間も、何か満たされない不安を感じる時がありますが、それは私たちが神様に触れられてもらっていないからかもしれません。

 

4.奉仕するとき

 私たちクリスチャンは主のために奉仕したいと思います。それはとても素晴らしいことです。しかし、誰でもできるものではありません。神様に対する正しい知識がなければ、奉仕することによって、試練に陥るからです。「こんなに頑張っているのに報われない」と考え始めると、いつか燃え尽きてしまいます。神様の祝福は、私たちの労働による対価ではなく、共に生きる結果です。羊が羊飼いに完全に従って生きるときに平安な環境で過ごせるように、人間も神様に完全に任せて生きているときに平安が訪れるのです。その平安の中で感謝が生まれ、自分自身を喜んで捧げることができるのです。神様はお金を入れてジュースが買える自動販売機のような方ではありません。まずは神様を自分の人生の主人として認めるところから始めるべきなのです。

 

5.まとめ

 私たちの人生の主人は自分自身ではありません。私たちは自分で自分を正しく導くことはできません。自分の思い通り歩めば滅びに至ります。私たちを正しく導くのは羊飼いである神様だけです。だから私たちはまず、主を知り、私たちを知らなければなりません。主と共にいる事こそが、私たちの幸せに生きることのできる道なのです。ひょっとして神様と関係ない所で、自分の力だけで、生きて行こうとしていないでしょうか。そこに幸せはありません。自分自身が羊であることを忘れ、無理な行動をすれば、道を踏み外し、破滅に至ります。私たちの人生の主人である神様を知り、すべてを任せてついて行きましょう。​ 

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