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偽りのない礼拝(イザヤ1:13-18)
고영수 2022-10-15 추천 0 댓글 0 조회 483

20221016 日曜午後礼拝(本文) 

聖書:イザヤ1:13-18

題目:偽りのない礼拝

内容:どんなに良い捧げ物も、偽りがあれば受け入れられない。全ての偽りを捨てた礼拝をしよう。

賛美:賛美歌255、福音賛美86、213

 

1.イザヤ書の時代背景

 イザヤとは「救いは主のもの」という意味の名前を持つ預言者です。南ユダ王国に生まれ、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の時代に活躍しました(1:1)。神の審判(1−39章)と回復(40-66章)について預言しました。当時はアッシリア帝国が勢力を伸ばし、北イスラエル王国も南ユダ王国も侵攻を受けていました。アラム人国家の滅亡後、北イスラエル王国はエジプトと手を組んで対抗しましたが、敗れて滅びることになりました。南ユダ王国も無事では済まず、エルサレムを残して、数々の町を失いました(1:7)。南ユダ王国はソドムやゴモラのように滅び去る一歩手前の状態まで来ていたのです。人々はそれでも、神様に生贄を捧げ、安息日を守り、礼拝を捧げていました(1:11−14)。

 

2.神様の怒り

 そんな背景の中、イザヤ書1章は法廷のような場面から始まります。原告が神様、被告がイスラエル、証人が天と地です。何と被告は残忍な侵略者アッシリアではなく、神の民であり被害者であるイスラエルになっています。そして神様は、自分の民であるイスラエルに対して「ソドムの首領たち」「ゴモラの民」ときびしい言葉をイザヤに言わせています(1:10)。なぜイスラエルの民が非難されなければいけないのでしょうか。それは、イスラエルが偽りの礼拝を捧げていたからです。彼らは確かに、神様に言われた通り礼拝を捧げていました。しかし、そこには愛や感謝、誠実な思いなどがなく、全て偽りで塗り固められていました(1:11−15)。彼らは礼拝を捧げる一方で、養い育ててきた神様の思いを知ろうともせず、主の嫌がることばかりしていました(1:2-5)。平気で物を盗み、賄賂を受け取り、正義よりも利益を優先し、弱い者を助けませんでした(1:23)。彼らはまるで神様なんていないかのように振る舞い生きていたのです。彼らの礼拝は神への愛でも感謝でもなく、単なる習慣的なものになり、ウジヤ王に至っては自分の栄光のために香を炊こうとし神殿に入ったのです(Ⅱ歴代誌26:19)。イスラエルの人々は自分たちの利益のために、他の偶像を崇拝するように礼拝を捧げていたのです。神様はそれが我慢できませんでした。この時のイスラエルの姿はまるで、家では夫に尽くす姿を見せながらも、外では別の男性と会っている不貞の妻のようです。神様にとっては、愛を持って養い育ててきたイスラエルに裏切られたも同然です(1:2−5)。アッシリアによって北イスラエルが滅び、南ユダも滅ぼされようとしているのは、神様に力がないからでも、神様が怠惰だからでもありません。イスラエルの不貞が原因だったのです。

 

3.イスラエルの民の問題点

 ここで注目したいのは、イスラエルの民が滅びに直面しているのは、生贄や礼拝を怠ったからではなく、その礼拝が偽りだったからです。本当の礼拝とは、礼拝の間だけ、神様に捧げものをすればいいというものではありません。真の礼拝とは、礼拝する時以外でも神様の言葉に従い、神様と共に歩んで行く者が捧げられるものです。1年の間で364日間、家の中で夫を愛していたとしても、1日だけでも外で他の男性を愛するような妻は、誠実な妻とは言えません。たとえ妻としての役割を十分に果たせなかったとしても、家の中でも外でも、自分の夫だけを愛して生きていくものだけが、本当の妻と言えるのです。信仰者も同じです。毎週教会に来て礼拝を捧げているからといって信仰者とは言えません。教会の外でも中でも主だけを愛し、従うものだけが真の信仰者です。

 また、ウジヤ王のように自分が賞賛されるための礼拝も、祝福をもらい天国へのチケット手に入れるために捧げる礼拝も間違っています。神様を愛し、感謝し、共にいることを喜ぶ者だけが、本当の、神様に喜ばれる礼拝を捧げることができるのです。例えば、私たちは恋人にプレゼントをするとき、相手の喜ぶ姿を想像します。それは無償の愛であり、見返りを求めるプレゼントは間違っています。結婚も同じです。相手と共に生きていきたいと願うから結婚するのであって、何かの利益のための結婚は間違っています(例:経済力があるから、子供ができたからなど)。残念ながら、その当時のイスラエルの礼拝は、すでに形骸化しており、神様だけを愛し、神様の教えに従って生きて行こうと考える人がほとんどいなかったのです。神様は彼らの偽りの礼拝を「飽きた」「喜ばない」「むなしい」「忌み嫌う」「耐えられない」と拒絶しています。

 

4.イエスの時代

 イエスの時代においても、同じような問題点が見られました。それはパリサイ人です。彼らは熱心に生贄を、祈りを、礼拝を捧げていました。一生懸命人々を導き、善い行いをしました。しかし、それらは神様を愛するからではなく、他人よりも自分をよく見せ、人々から賞賛の声を得るためでした。人々を導く指導者が、人々を導くための神の言葉を用いて、自分たちの権威を高めることに心を注いだのです。神様を愛するのではなく、利用していたのです。その結果、罪から人々を救うのではなく、人々を罪で苦しめる存在になってしまいました。イエスはパリサイ人の偽善を見抜き、こう言いました。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして、人々を入らせない。自分も入らないし、入ろうとする人を入らせもしない」(マタイ23:13)。パリサイ人は自分たちが間違った信仰を持つだけではなく、周りの人々にも間違った信仰を持たせようとしていたのです。パリサイ人の礼拝は偽りで塗り固められており、その間違った信仰を人々に見せていました。だからイエス様はパリサイ人を強く非難したのです。イザヤ書における神様のイスラエルの民に対する批判も同じです。神の国の民のモデルケースとして人々の見本になるべきイスラエル人が、率先して偽りの信仰を持って偽りの礼拝をしていたのです。このような礼拝を神様は拒絶されます。

 

5.コロナ禍の私たち

 私たちは心からの礼拝を捧げているでしょうか。もし、自分の利益のために、人に認められるために、祝福を受けるために礼拝をしているならばそれは偽りの礼拝になります。教会の外では、神様の考えよりも自分の考えを優先し、神様とは関係のないような生き方をしているのならば、私たちの捧げる礼拝も捧げ物も奉仕もすべて偽りのものになります。そのような礼拝を神様は受け入れません。かつて韓国が日本よりも貧しかった時代、韓国から日本にやってきて水商売をしてる人々がいました。その人々は教会で、罪悪感を和らげるための献金を捧げていました。人の目から見ると、大きな金額は教会を支える大きな力のように見えます。しかし神様はこのような捧げ物を嫌います。私たちの礼拝は、自己満足のためではなく、愛と感謝と喜びを持って捧げるべきです。コロナウィルスによって、世界中の多くの教会が一時的に扉を閉めざるを得なくなりました。3分の1の信者たちが教会を離れ、戻ってこなかったと言われています。多くの人々がコロナのせいにして不平不満を述べていますが果たして本当にそうでしょうか。アッシリアによるイスラエルの侵略の原因が、アッシリアではなくイスラエルの礼拝態度にあったことから、コロナウィルスによる教会閉鎖の原因が、コロナウィルスではなく、私たちの偽りの礼拝にあったのではないでしょうか。私たちは神様に礼拝を捧げることを、あまりにも当たり前に考え、愛や感謝や喜びの気持ちを忘れていたのではないでしょうか。現在では、コロナウィルスによる影響が薄まり、以前の生活に戻りつつありますが、コロナ禍で教会に行けなくなった原因は、コロナウィルスではなく、私たちの偽りの礼拝に問題があったかもしれないことを忘れてはいけません。

 

6.立ち返ろう

 一方で、神様はソドムとゴモラのようなイスラエルの民およびに私たちにこう言っています。「さあ、われわれは互いに論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ」(1:18)。「互いに論じよう」と言っていますが、これは、本来裁かれて地獄に行って当然の私たちが、そうならないための方法を提案しているのです。そして私たちの罪は「緋色」だと言っていますが、これは2度染めして決して取れないような赤色を示しています。つまり私たちの罪は取り返しがつかないほどに重いのです。しかし、神様は「雪のように白くなる」と言っています。本来は決してあり得ない話なのですが、神様はその愛によって罪の許しをされるということなのです。神様を信じないと地獄に行く、という話をすると、無実の人間を神様が地獄に落とすぞと脅しているようで、不快に感じる人々がいます。しかし、それは誤解です。私たちはすでに地獄行きが決定している状態で、ただただ神の憐れみによって、その罪を白くすることのできる方法を神様が福音として伝えているのです。私たち人間は決して崖っぷちの状態にいるのではなく、すでに崖から落ちている状態であることを忘れてはいけません。そんな私たちを神様は憐れみを持って救おうとされているのです。だから私たちは全ての偽りを捨てて、主に心からの礼拝を捧げることができるよう、立ち返らなければならないのです。

 

7.まとめ

 神様は私たちの心からの礼拝を望んでいます。形式的な礼拝や、表面的な礼拝は受け入れられません。むしろ神の怒りを買います。そして心からの礼拝とは、自分の利益のためではなく、見返りを求めない愛と感謝を持って捧げる礼拝であり、それは24時間365日神の言葉に従って生きようとする者たちの特権です。私たちはみんなすでに崖から落ちて助かるはずのない状態ですが、まだ希望が残っています。それはまことの礼拝を捧げるために、全ての偽りを捨てて、主に立ち返ることです。「悔い改め」とは、過去の偽りを悔いるだけではなく、その過去の偽りをすべて捨てて、真実なる主に従うことです。私たちの礼拝はいかがでしょうか。偽りなく心から主を賛美し、捧げものを捧げているでしょうか。コロナ禍が過去のものになりつつある今も、私たちは、周りの人々や他の物に原因を求めるのではなく、自分自身に偽りがなかったかを顧み、真実で誠実な気持ちで主を礼拝するようにしましょう。​ 

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