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取り除く神様(イザヤ3:1-3)
고영수 2022-11-05 추천 0 댓글 0 조회 121

​20221106 日曜午後礼拝(本文)

聖書:イザヤ3:1-3

題目:取り除く神様

内容:私たちとの正しい関係を取り戻すために、私たちの頼りにしている物を取り除く神様を知ろう。

 

 

1.豊かな現代社会

 私たちは「あればあるだけ良い」という考えを持っています。お金はあればあるだけ困らない、食べ物はあればあるだけ困らない、知識はあればあるだけ困らない、「ないよりはあった方がいい」と考えます。果たして本当にそうでしょうか。たくさんのお金があれば人助けができる、たくさんの食べ物があれば分け与えることができる、たくさんの知識があれば人々を導くことができる、と考えますが、実際はそうはなりません。大きなお金のせいでトラブルを引き起こし人間関係が壊れた人、食べ過ぎたせいで肥満や糖尿病になり健康を失った人、膨大な情報よって混乱し平安をなくした人など、身の回りにあふれる物のせいで本当に大切な物を失ってしまった人々がいます。私たちはついつい手に入れることばかりを求めてしまいますが、その手に入れた多くのもののせいで別の大切なものを見失っていないでしょうか。私たちは本当に必要なものを見失わないためにも、求めるばかりではなく、余計なものを取り除く必要性を知らなければなりません。

 

2.イザヤの時代のエルサレム

 イザヤの時代、神様はエルサレムから2つの物を取り除きました。1つ目はパンと水です。人々は神の王国の民でありながら、神様がいなくてもパンと水さえあれば生きていけると考えたのです。もちろん生きていくためには食べる物と飲むものが必要です。食べる物も飲むものもなければ、人は肉体的に死んでしまいます。しかし一方で、神様から離れれば、人間は霊的に死んでしまいます。肉体的な死は一時的なものですが、霊的な死は永遠に続きます。私たちは明らかに一時的な肉体的な死よりも永遠なる霊的な死を恐るべきです。聖書も肉体的な死よりも霊的な死を恐れるように教えています。人はパンや水がなくては生きていけないが、神様がいなくても生きていけるという考えは、この世の間違った考え方です。ユダヤ人は、神の王国の民として、パンや水を頼みとして生きるのではなく、パンや水も与え、肉体的にだけでなく霊的に生きながらえさせる神様だけを頼みとして生きなければなりません。だから神様はエルサレムからパンと水を取り除きました。

 また、2つ目は頼りがいのある人間です。人々は神の王国の民でありながら、神様がいなくても、頼りがいのある人間さえいれば生きていけると考えたのです。それは、勇士や軍人といった力の強い者、裁判官や預言者、占い師や長老、50人の長、議官といった身分の高い者、そして巧みな魔術師や老練なまじない師といった不思議な能力を持った者でした。もちろん人はひとりでは生きていけません。互いに支え合って生きていきます。そして力や身分、能力のある者や専門家に頼らないとできないこともたくさんあります。しかし、人を頼ることで安心し、神様がいなくても大丈夫だという考えは、この世の間違った考え方です。この世で起こること全ては神様の許可なしには起こり得ないと聖書は教えています。この世には神様以上に完全な方はいません。不完全な人間よりも完全なる神様を頼るべきです。だから神様はエルサレムから頼りがいのある人間を取り除きました。パンと水、頼りがいのある人間といったものは、いつでも生きていくためになくてはならない大切な物のように見えますが、エルサレムでは神様との間を遮る厄介な障害物の一つに代わってしまっていたのです。

 

3.取り除く理由

 なぜ神様はエルサレムからパンと水、力ある者たちを取り除いたのでしょうか。もちろん神様だけを頼りとする本来の神の王国の民の姿を取り戻すためですが、それと同じくらい大切で忘れてはいけないことがあります。それは神様が私たちを愛しているからだということです。私たちを愛いているからこそ、私たちと神様との間にある障害物を取り除かれるのです。私たちはあまりにも多くの物で神様の御顔を見ることができなくなっています。それを聖書は偶像と呼んでいます。偶像とは何も仏像やお地蔵さんといったものだけではなく、パンや水、人も偶像になりうるのです。イザヤの時代のユダヤ人にとってはパンや水、そして人が偶像となって、神様の御顔を見ることができなくなっていました。だから神様は愛する私たちとの間から偶像を取り除くために、エルサレムにさばきを与えたのです。

 なぜ神様は私たちを愛しているのでしょうか。英語のNIVの聖書でエレミヤ17:9を見ると、「自分自身ですら理解できないほど、人の心は何よりも嘘つきで治らない」と書いてあります。神から見れば人間は手遅れなほどどうしようもない存在です。私たち人間は神様にとって愛しやすい近い存在でも、愛する価値のある存在ではないのです。しかし、ローマ5:8を見ると「しかし、まだ罪人であった時、私たちのためにキリストが死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである」と書いてあります。つまり、ひとり息子を犠牲にするほど私たち人間を愛していることが分かります。神様は私たちが何か偉大なことをしたからではなく、また何か素晴らしいものを持っているから愛しているのではありません。私たちが嘘つきで、罪深く、その罪深さも理解していない愚か者であるのにも関わらず、近くて価値ある存在に戻すために愛してくださっているのです。神様が私たちから何かを与えるだけでなく取り除くのは、私たちを愛しているからであることを忘れないでください。

 

4.私の結婚を取り除いた神様

 私の場合、神様は結婚を取り除きました。私はいつも片想いばかりでフラれてばかりでした。まともに彼女ができたことがありません。モテない私のために両親は20代中盤と早めの時期から何度も何度もお見合いの場を作ってくれました。何度も祈り、泣きながら祈ったこともありました。モテるために、たくさんの本を読んで勉強をしました。しかし、全てうまくいきませんでした。神様は私から結婚を取り除きました。それは結婚が私の人生の最大の目的となっており、私にとっての偶像になっていたからでした。私が努力するのはいつも自分の正義のためであり、自分の成功のためであり、人々のためでも神様のためではありませんでした。そして、自分の劣等感を隠すため、空っぽの自分を少しでも良く見せるため、自身のあるフリをしました。結婚も、周りからまともに見られるため、両親を安心させるため、他人と比べて優越感に浸るためでした。神様がこんな結婚を喜ぶはずがありません。もし私が牧師になることを決断する前に結婚していたなら、牧師になることもアメリカに行くことも考えることはなかったでしょう。そして、間違った自信を持って優越感に浸り、自分の妻と子供を自分の正義で苦しめていたと思います。私は結婚できなかったことで、アメリカに行き、神様と出会いました。そこで私は、神様が私の持っている物や行いを見て私を愛するのではなく、私の存在自体を愛して下さっているということを心から知ることができました。何もない私の存在を認めて用いて下さる神様に劣等感を取り除いてもらい、優越感に浸ることの無意味さを知りました。今私が牧師になろうとしているのは、私が神様によって癒され救われたからです。若い時の私から、神様が結婚を取り除いて下さったからこそ、劣等感を乗り越えた今の私があるのです。

 私は若いころ、世の中の人間でした。神様ではなく人の愛情を手に入れるために一生懸命頑張って生きてきました。「かっこいいあなたが好き」「仕事を頑張っているあなたが好き」「テストで100点を取るあなたが好き」と言われるためです。しかし、ファッションに気を使ってもセンスは磨かれず、仕事を頑張ってお金を稼いでも大した金額にはならず、勉強を頑張っても賢くなりませんでした。私は自分に価値を見出せませんでした。むしろ頑張れば頑張るほど自分がみじめでした。「自分は相手の期待に応えないと価値がないんだ」「でも自分は頑張ってもみんなの期待に応えられない」と落ち込んでいました。人の求める条件付きの愛情は私を安心させることはできなかったのです。しかしアメリカで神様が見せてくれたのは、神様の無条件の愛でした。神様はアメリカにいる人々を通して愛を示してくれました。私が結果を出せなくても、失敗しても、頑張れなくても大丈夫だと教えてくれました。私の持っている物や行うことではなく、存在自体に神様にとって価値がある物だと教えてくれました。人はいろいろと条件を付けます。そこにある愛を手に入れるために様々な才能や努力を要求されます。しかし神様の愛情は無条件です。頑張りが足りなくても、成果がなくても神様は私たちを愛して抱きしめてくれます。もし私と同じように劣等感に苦しんでいる人がいたら、その人が成功した時にではなく、失敗した時に良くしてあげて下さい。厳しい条件を取り除いてあげて下さい。条件付きの愛を手に入れるための努力は人をみじめにさせます。人は無条件の愛によって癒され、喜びを持って頑張ることができるのです。

 

5.まとめ

 私たちはどうしようもなくダメな存在です。神様だけが、人間の生きていける道なのです。しかし、それが分からず、生きていくためにあれこれ手に入れ、神様との間にあれこれ置いて身を隠そうとします。そして頼るべき存在を見失い、自ら身を滅ぼします。しかし、そんな私たちに神様は無条件で愛を示し続けています。そしてその愛が届くように、自分の元に戻って来れるように、その間の物を取り除かれます。私たちは何かを失う時に神様に不満を漏らしますが、その取り除く行為は、私たちが本当に生きるために必要だから、私たちを愛しているからです。私たちが苦しいのは、私たちに足りないものがあるからでも、神様が私たちを愛していないからでもありません。余計なものを持ちすぎているからです。与えられる時だけでなく、神様が私たちから何かを取り除くときこそ、神様の愛を知り、神様に感謝を捧げましょう。

 

互いに神様によって取り除かれて感謝したことを分かち合いましょう。​

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