20241208 日曜午後礼拝(本文)
聖書:創世記3:15
題目:何を待ち望むのか?
内容:クリスマスは救いの約束を主が果たしてくださった事を喜ぶ日です。来るかどうかもわからない、善人だけにプレゼントを与えるサンタクロースを待ち望むのではなく、約束通りに、全ての人々を罪と死から解放するために来られたイエスキリストを、人々が受け入れることを待ち望みましょう。
説教者:高曜翰 副牧師
“わたしは恨みをおく、 おまえと女とのあいだに、 おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、 おまえは彼のかかとを砕くであろう」。”
創世記 3:15
1。サンタクロース
みなさんはクリスマスに何を望みますか?子供たちはプレゼントをくれるサンタクロースを待っていると思います。しかし、子供達のみならず、大人たちも何か良い物をくれるサンタクロース的なものを期待しているのではないでしょうか?
サンタクロースとは、4世紀に小アジアのミュラで司教をしていた聖ニコラウスがモデルになったと言われています。ある貧しい家の娘がお金がなくて結婚できずにいました。かわいそうに思ったニコラウスはその家の煙突から金貨を投げ入れました。すると、その金貨が暖炉に吊るされていた靴下の中に落ちました。その金貨のおかげで娘は結婚式を挙げることができました。これがサンタクロースの由来になったというお話です。
一方で、ヨーロッパに伝わる伝承では、サンタクロースには付き添いの悪魔がいたそうです。各国によって呼び方は違いますが、いい子にはサンタクロースがプレゼントをあげる一方で、悪い子にはこの悪魔がお仕置きを与えるのだそうです。日本でも、「いい子にしていたら、サンタさんが来るよ〜」と言いますが、逆を言えば、悪い子にはサンタが来ないと言っても脅しているようなものです。悪魔が来ないだけマシかもしれませんね。
2。神様の約束した「恨み」
今日の本文の内容は神様が約束した「恨み」についてです。神の国で暮らすアダムとエバには神様が与えた1つの決まりがありました。どの木からも自由に取って食べていいけど、善悪を知る木の実から取って食べてはダメだ、という決まりです。この善悪を知る木は、この実を食べないことで、神の国の主権が神様にあることを知る知恵の木だったのです。昔、食卓では、父親が手をつけるまで子供達が食べることができませんでしたが、それに似ているかもしれません。子供達が家の中で好き勝手しても、家の主人が子供達ではなく、父親であることを食卓のルールで教えていました。善悪を知る木の実もそのように、神の国における主人が人間ではなく神様であること教えていました。
しかし、悪魔は1番賢い蛇の姿を借りて、エバをそそのかし、善悪を知る木の実を食べさせました。すでに神のイメージを持っているのに、神のようになれると騙したのです。そしてエバに勧められ、アダムも食べてしまい、人間は悪魔の支配下に入ってしまいました。神様に尋ねられた時、悔い改めたのなら良かったのですが、アダムはエバを、エバはヘビを非難し、遠回しに神様まで非難しました。アダムは神の国の管理を任された管理者として蛇を叩き殺すなどしたり、また夫として妻の間違った行動を静止させるべきでしたが、見ているだけでした。管理者としても夫としてもアダムは失敗したのです。
その結果、人間の主権者が神様から、悪魔に変わってしまいました。神様ではなく自分に基準を置くという罪のために、神様との霊的な繋がりが切れてしまったのです。罪の性質のため、神様と共にいると、神様の清さによって人間は肉体的にも死んでしまいます。そのため神の国からでなければなりませんでした。アダムたちは1日で枯れてしまういちじくの葉で身を隠していましたが、かわいそうに思った神様は動物の血を流して殺し、長いこと体を隠すことのできる丈夫な革の着物を作って着せてくださいました。
それだけではありません。ここからが今日のお話の中心になるのですが、神様は、自分の失敗を神様のせいにするような高慢な裏切り者のために約束を与えました。悪魔の支配下から解放するための救い主を送る約束です。それが悪魔と女の子孫との間に置かれる「恨み」です。なぜ女の子孫なのでしょうか?それは罪の血を引く男(=人)の子孫によらないためです。女の子孫とは、ヘブライ語で見ると単数形で書かれており、ある特定の人物を指しています。それが救い主であるキリストなのです。つまり「彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕く」とは、キリストが悪魔の頭を砕き、悪魔がキリストのかかとを砕くということになります。言い換えれば、悪魔はキリストを十字架にかけて痛みを与えますが、キリストは悪魔を完全に致命傷を与えるということです。神様は罪を犯した人間のために、悪魔の支配下から解放して神の国に戻って来れるように、救い主を送る約束をしてくださいました。神様がどれだけ私たち人間を愛しているとういことが、この本文からも分かります。
3。イエスキリスト
この約束の成就がマタイによる福音書1:20−21からわかります。ダビデの家系でヨセフという男がいましたが、婚約者のマリヤが結婚前に妊娠している事を知りました。ヨセフは、マリヤのことが公にならないように密かに離縁しようとしました。その夜、天使が夢に現れて、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないで、マリヤを妻として迎えるが良い。マリヤが妊娠しているのは聖霊による。彼女は男の子を産む。イエス(神は救い)と名づけなさい。その子は、自分の民を全ての罪から救う者となる」と言いました。天使の言葉を信じてマリヤと結婚した結果、無事救い主となるイエスキリストが生まれました。創世記3:15から始まった救い主の預言がついに成就したのです。そして後世で、その生誕を記念してクリスマスが定められたのです。
以上のことからクリスマスには3つの意味があります。1つ目は「約束通り」です。男ではなく女の子孫として救い主が生まれるという約束が、聖霊によって妊娠したマリヤを通して成就しました。サンタクロースは約束なしに、来るかどうかもわからない存在です。しかし救い主であるキリストは約束通り確かにやってきました。
2つ目は「解放するため」です。イエスとは、神は救い、という意味です。悪魔の支配下から人々を解放するためにイエスは生まれたのです。サンタクロースは赤い服を着ていますが、これは自分の血が流れても最善を尽くし人を助けるという意味です。努力してこの世の良い物を与えてはくれます。しかし罪と死からは解放できないのです。一方で、イエスの赤い血は、私たちを悪魔の支配するこの世から解放し、罪と死から解放してくれます。確かに、救われたものは、持っているものではなく、神の国の民という存在によって幸せを得ることができます。
3つ目は「全ての人のために」です。生まれや能力によらず、自分の民となる者を全ての罪から救うためにイエスキリストは生まれました。サンタクロースは、いい子にだけプレゼントをくれる条件付きの愛を与えます。しかしイエスキリストは、悪人だろうが善人だろうが、その名を受け入れる者全てに対して確かに無条件の愛を与えます。
4。まとめ
イエスキリストは「約束通り」、「全ての人々」を「解放するため」に生まれました。私たちはクリスマスに、サンタクロース的な者を通して得られるこの世の物を待ち望むのではなく、約束通りに全ての人々を解放するために来られたイエスキリストを喜び、兄弟、家族、友人が、イエスキリストの名を受け入れることを待ち望みましょう。
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