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真実の愛(創世記3:21)
고요한 2024-12-28 추천 0 댓글 0 조회 62

20241229 日曜午前礼拝

聖書:創世記3:21 

題目:真実の愛 

内容:真実の愛とはどのように見分けるのでしょうか?それは、見返りを求めず、進んで、相手を成長させる犠牲です。神様は私たちをそのように愛してくださいました。人間は悪魔の支配下に入り、愛のない存在になってしまいましたが、神様は私たちに犠牲を通して真の愛を知ってもらいたいと願っています。私たちは犠牲を払うことでイエスの愛を学び、本当の愛を手に入れましょう。 

説教者:高曜翰 副牧師 

 

1。真実の愛  

 これはアメリカで出会った友人のお話です。知人からの紹介を受けて様々な女性と会うのですが、本当の愛がわからないというのです。話が合うと思っても、将来牧師になるという話をしたら、女性が離れていき、また、身なりを綺麗にして食事をご馳走したりして、うまくいきそうでも、相手が自分ではなく、自分の持っている外見やお金を見て近づいているのではないかと疑心暗鬼になってしまうとのことでした。たった一人でいいからお互い愛し合える人を見つけたいのに、その愛が何なのか分からなくなってきた、という話を聞きました。  

 そんな彼ですが、多くの神学生が精神的に病んだり、体を壊したりして、逃げ出してしまうような厳しい教会で奉仕を始めました。彼はそこで多くの犠牲を払いましたが、そこで一緒に奉仕する女性伝道師と出会いました。きつい環境の中で、お互いの奉仕を助け合う中で徐々に惹かれ合い、最終的に結婚しました。彼は最初、多くの時間とお金と労力を使わなければいけないことに、怒りを覚えていましたが、お互いに犠牲し合える関係の中で、本当の愛を見つけるようになったのです。 

 

2。堕落による愛の欠落  

 創世記3章は人間の堕落についてのお話です。ヘビに騙されて、食べてはいけない木の実をエバが食べ、アダムが食べてしまいました。神様はなぜ食べたのかとアダムに尋ねましたが、アダムはエバのせいだと答えました。神様はエバにも尋ねましたが、エバはヘビのせいだと答えました。パウロは「愛は自分の利益を求めず、恨みを抱かない」(1コリント13:5)と言いました。しかし、アダムもエバも自分の保身を第一にし、恨みを持って答えました。ここで、アダムが愛をもって自分のせいだと、自分を犠牲にして、罪を認める答えをしていたのなら、未来は変わっていたのかもしれませんが、それはできませんでした。それは、アダムとエバは悪魔の子となり、愛のない存在になってしまったからです。悪魔には愛がありません。もし愛があるなら私たちの罪を覆ってくれるはずです。しかし、愛がないため、悪魔の子(ヨハネ8:44)である私たちも人を正しく愛せないのです。  

 神様は、ヘビには「お前の子孫と女の子孫の間に恨みを置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くだろう。」とメシアによる完全な裁きを預言しました。これは私たちへ希望を与えるメッセージとなりました。そして、アダムとエバにも裁きの預言をしましたが、これは角度を変えてみると、愛の分からない私たち人間へ、愛し方を教えているメッセージのように見えます。エバには「苦しんで子供を産みなさい」と言いました。これは、子供を愛するには犠牲を払なさい、と言っているのではないでしょうか。アダムには「苦しんで食物を取りなさい」と言いました。これは、妻と子供を愛するために犠牲を払って仕事をしなさい、と言っているのではないでしょうか。ここで注意したいのは、罪のせいで出産や仕事できたわけではないということです。これらは罪以前から存在していましたが、罪の結果、苦しむことになったということです。これは単に人間を懲らしめるためだけではなく、神様が愛し方を教えているのだと見ることができます。  

 神様は、アダムとイブに皮の着物を作ってあげました。これは、すぐに枯れてしまういちじくで身を覆っているアダムとイブが可哀想だから、丈夫で長持ちする皮の着物を作ってあげたという話ではありません。皮の着物を作るというのは生きた動物を殺すことを意味しており、犠牲を出すことを意味しています。神の国を追放される彼らにどうして貴重な神の国の動物を犠牲にしたのでしょうか?それは愛には犠牲が伴うということを教えるためです。律法の中で神様に犠牲を捧げるように命じているのも、犠牲を通して愛することを学ぶためなのかも知れません。  

 イエスは「友人のために自分の命を捨てることが、1番大きな愛である」(ヨハネ15:13)と言いました。事実、イエスは自分を犠牲として、私たちの身代わりとして死なれました。「お前(サタン)は彼(メシア)のかかとを砕く」という預言通り、イエスは十字架にかかりました。しかし、ただ十字架にかかるのではなく、苦しんで十字架にかかるのは、それだけ人間を愛しているということです。神様が、最も愛する一人息子を犠牲に捧げるのは、それだけ人間を愛しているということです。犠牲を払うことが、真の愛につながることを教えているのです。   

 

3。真の愛とは?  

 第一に、真の愛とは見返りのない犠牲をすることです。イエスは「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)と言いました。神様は今の堕落した人類を全て処分し、新しい人類を作ることも十分可能なお方です。しかし、そうはしませんでした。むしろ、裏切り者である人間を救うために、一人息子を犠牲にしたのです。なんの見返りもなく、労力しかかからない私たちのために1番の犠牲を払ったのです。ここに本当の愛があります。  第二に、真の愛とは進んで犠牲をすることです。イエスは、自分を捕えようとする人々から守ってくれたペテロに「剣を鞘に納めなさい。父が私に下さった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ18:11)と言いました。イエスは自分一人でも十分逃げることができ、天使を呼んで撃退することもできました。またペテロや弟子たちを盾にして逃げることもできました。しかし、自ら捕まり、犠牲となりにいきました。私たち人間を救うためです。ここに本当の愛があります。 

 第三に、真の愛とは相手を成長させます。パウロは「いっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、全てを完全に結ぶ帯である」(コロサイ3:14)と言いました。人々を結び完全な者にするのは愛だと言っています。天国に行くためにイエスを信じることがゴールではありません。実はイエスを信じることが始まりなのです。イエスは復活した後、40日間、弟子たちを復活の証人として愛をもって訓練しました。その結果、逃げ出したペテロは、人々の前で大胆に語る証人に生まれ変わりました。神様は単に魚を与える方ではなく、魚を取る漁師にするお方です。もし私たちが喜んで犠牲を払って愛していると言っても、相手が成長ではなく堕落していくようならば、真実の愛とは言えません。真実の愛とは相手を馬鹿者にしてしまうものではなく、成長させるものです。  

 さて、これらのことを踏まえて、皆さんはどのような結婚相手を探しますか?外見がよくて、学歴があって、お金がある人でしょうか?それとも、自分に良くしてくれそうな都合のいい人でしょうか?どうか、相手が持っているものやくれるものを見るのではなく、この人になら人生をかけて犠牲を払っても惜しくないと思う人を選んでください。そうすれば真実の愛に近づけるのではないでしょうか? 

 

4。まとめ  

 真実の愛とは、自ら進んで、見返りを求めず犠牲することです。犠牲なき愛はありません。そして受け身では得られません。相手に与え、自分ではなく、相手を成長させる愛こそが本当の愛です。イエスのように自己犠牲を実践することで真実の愛を学びましょう。

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