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慰めの日が来る(イザヤ40:1-5)
고요한 2025-02-15 추천 0 댓글 0 조회 66

20250216日曜午後礼拝

聖書:イザヤ40:1−5

題目:慰めの日が来る

内容:未来の見えない絶望感に包まれることがあります。しかし諦めないでください。神様によって苦労が終わり、慰められる日が必ずやってきます。私たちのすべきことは、早く問題を解決することではなく、その日に備えイエスを迎える心を準備することです。イエスが来られる時、これまでの苦労は栄光に変わります。

説教者:高曜翰 副牧師

“あなたがたの神は言われる、 「慰めよ、わが民を慰めよ、 ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、 その服役の期は終り、 そのとがはすでにゆるされ、 そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を 主の手から受けた」。 呼ばわる者の声がする、 「荒野に主の道を備え、 さばくに、われわれの神のために、 大路をまっすぐにせよ。 もろもろの谷は高くせられ、 もろもろの山と丘とは低くせられ、 高低のある地は平らになり、 険しい所は平地となる。 こうして主の栄光があらわれ、 人は皆ともにこれを見る。 これは主の口が語られたのである」。”‭‭

イザヤ書‬ ‭40‬:‭1‬-‭5‬ 口語訳‬

1。発展に隠れる絶望

 韓国は経済大国となりました。2022年、物価変動を考慮しない名目国内総生産GDPが34,112ドルとなり日本を抜きました。また医療大国でもあります。2021年、OECD加盟国で死亡率が582人/10万人と1番少なくなっています。しかしながら、発展の一方で自殺大国にもなってしまいました。2023年、自殺率が27.3と世界一になっています。これは日本も同様ですが、10代、20代、30代の死因の1位は自殺となっています。若者たちは病気や怪我ではなく、自ら命を立っているのです。韓国の統計庁は相対的剥奪感が原因ではないかと発表しています。相対的剥奪感とは、望むことが当然と思われるような結果が剥奪されていると感じることによる憤りを言います。言い換えれば、「隣の芝生は青い」、「なんで自分だけ」といった感情です。SNSの普及率が韓国は93.4%(日本は78.1%)と世界的に見ても非常に高く、他人との比較が原因になっているのではないでしょうか。はっきりしていることは、未来に絶望している若者たちが多くなっているということです。

2。慰めの日は来る

 前回、ヒゼキヤ王のバビロンに認められたい心が問題となり、イザヤからバビロン捕囚の預言を受けることになりました(イザヤ39:5−7)。預言の詳細はイザヤではなくエレミヤが語ることになります。しかし、「私は長くその国の位を堅くしよう」(2サムエル7:13)という神様とダビデとの約束は今後どうなってしまうのでしょうか?

 今日の本文では、慰められる日が必ず来ることを教えています(イザヤ40:1−2)。まず、神様の慰めたい思いが文法上に現れています。ヘブル語の本文を見ると、「慰めよ」「語りかけよ」「呼びかけよ」は全て複数への命令形になっています。イザヤ1人の声が悲しみの言葉を伝えましたが(39:5−7)、複数の声が慰めの言葉を伝えるように命令しています(40:1)。エルサレムを裁くよりも慰めたいという神様の思いの強さを見ることができます。神様がアブラハムに言った「あなたを祝福する者(複数形)を祝福し、呪う者(単数形)を呪う」(創世記12:3)という言葉と似ています。

 また、神様の慰めたい思いが構成上にも現れています。時系列順では38−39章のヒゼキヤの病気とバビロンのお話は36−37章のアッシリア侵攻よりも前に来なければいけません。しかし、順序が逆になっています。また、死海写本では、39:8と40:1は並列に明確な区切りがなく続いています。つまり、裁きの宣言に慰めの約束がセットになっていることを強調していることがわかります。神様がアダムとイブへの呪いの宣言の直前に「私は恨みを置く、お前〔へび〕と女との間に」(創世記3:15)と言ったメシアを預言との関係に似ています。この慰めの文章から、ダビデとの約束は破棄されておらず、民が主を見捨てても、主は民を見捨てていないことがわかります。

3。苦労は終わる

 次に、苦労が終わる日が必ず来ることを教えています(40:2)。まず、「服役の期が終わる」とありますが、服役とは戦争や苦難を意味し、すべての罪が清められるための「罪の代価を支払うための期間」と言えます。「二倍の刑罰を受けた」とありますが、原文では「倍」と言う言葉だけが書かれており、「倍」は折り重ねるという意味です。この「倍」は2倍という意味ではなく、罪の代価を支払った明細書のことです。かつて貿易商人が、支払済みの顧客のドアに、半分に折られた明細書(片方に内容、もう片方に支払い金額)をピン留めしていたそうですが、その明細書をイメージすればわかりやすいと思います。

 次に、「主の手から」という言葉に注目してみましょう。わざわざ「手」と書くのは、神様の人格的な部分を強調するためです。わざわざ「主の手から」という言葉を使うのは人間の努力によるのではないということを強調するためです。つまり、神の人格的な働きによって苦労が終わるのです。

4。主の道を備えよう

 どんなに先の見えないような状況でも、苦労が終わり、慰められる日が来がきます。そして、その日のために心に主の道を備えることをイザヤは教えています(40:3-5)。「呼ばわる者の声」とありますが、その声は「主」が来られる日が来ることを教えています。イエスの初臨の時はバプテスマのヨハネが呼ばわる者の役割を果たしました。イエスの再臨の時はエリヤがその役割を果たすと言われています。主は再び来られるのです。

 そして、必ず来る「主」のために道を準備せよと言っています。凸凹した荒野に、滑らかで平らな、誰がみてもわかるような公道を作りなさい、ということです。へこんでいるところは埋めて、出っ張っているところは削って平地にするのです。ただし、物理的な道ではなく、心に主が通るための霊的な道を指しています。

 それは主の栄光が現れるためです。かつて人の心は平らで、主の栄光が現れていました。しかし、罪の影響によって凸凹になり、主の栄光が十分に照らされなくなったのです。心に凸凹を作る罪をイエスによって消し去り、残った凸凹を私たちが取り除くことで、私たち主の栄光が十分に現れ始めるのです。もちろん凸凹を消し去り平坦にできるのも私たちではなく主です。しかし、主が私たちの知らないところで勝手に平らにするのではありません。私たちの、主を迎え入れるという意志が必要なのです。

5。イエスは私たちを慰めるために来た。

“神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。”

‭‭コリント人への第二の手紙‬ ‭1‬:‭4‬ 口語訳‬

 これは、パウロがコリント教会に当てた手紙です。信仰のせいで生まれる苦労でも、自分の罪のせいで生まれる苦労でも、どんな苦労の中でも神様が慰めてくれるということを教えています。どれくらい慰めてくれるかというと、苦難にある他の人々を慰めることができるように慰めてくれるのです。

 抱擁者シメオンはイスラエルが慰められるのを待ち望んでいました(ルカ2:25)。そんなシメオンの前にイエスはやってきたのです。シメオンはイエスに降りかかる苦難を預言しましたが、その苦難は私たちを慰めるためです(ルカ2:34-35)。イエスは、神様を信じない人々を裁いて地獄に落とすために地上に来たのではありません。慰めて救うためなのです。イエスの奇跡もそうです。人々の願いを叶え、自分が崇められるためではなく、人々が神様を受け入れ、慰められるようにするためです。

6。イエスは苦労を終わらせるために来た。

“すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。”

‭‭マタイによる福音書‬ ‭11‬:‭28‬ 口語訳‬

 これは、イエスがパリサイ人によって苦しめられている民衆に向けて言った言葉です。イエスはすべての人の苦労を終わらせ、休ませることができます。イエスが私たちの罪の代価を支払ってくれたので、私たちの人生にはあれが、これが、それが必要だ、ではないのです。私たちはイエスを迎えることで苦労から解放されることができるのです。

 注意したいのは、苦労が終わるのは、イエスの人格的な働きによる、ということです。私たちは機械的に事務的に処理されるのではありません。私たちの抱える苦労は同じように見えてもそれぞれ違う問題を抱えています。イエスはそれぞれに合った方法で、霊的な安らぎを与えます。つまり、問題が解決される場合もあるし、されない場合もありますが、苦労が終わる。ヒゼキヤ王は祈るとすぐに癒やされましたが、パウロは何度祈っても癒されませんでした。しかし、注目したいのは、どちらも主の平安の中にいたということです。神様は、私たちの想像を超えて、もっと完全な方法で苦労を終わらせてくださいますよう。別の例を挙げると、お金がなくて不安な人には、普通はお金を与えることで平安を与えられると考えます。しかし実際はそうではありません。お金がない不安が、お金を失うかもしれない不安に変わるだけで、不安な心はなくなりません。しかしイエスによれば、お金がなくても平安な人に生まれ変わることができます。みなさんは「お金があれば平安になれる人」と「お金がなくても平安になれる人」のどちらになりたいですか?

その時のために、心に主の道を作りましょう。 

“イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。”

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭9‬:‭3‬ 口語訳‬

 これは、生まれつき目が見えないのは誰の罪のせいかという、弟子の質問に対するイエスの答えです。イエスは、その苦労が神の栄光が現れるためと答えました。アダムの時代から始まった罪によって、私たちは苦労し、そして死ぬ存在になりました。誰もその生まれ持った罪の性質の影響から逃げることはできません。他人と比べて「なんで私だけ」と考えたくなる気持ちもわかりますが、全ての人が苦労を抱えています。目に見えやすい苦労を持っているか、目に見えにくい苦労を持っているかの差はあっても、全ての人が「神のイメージが壊れた人間」であることは間違いありません。しかし、どんな苦労もイエスによれば、栄光に変えることができるのです。

 苦労は神の国の民にふさわしくなるための準備期間です。私たちの苦労は罪の代価として当然であり、私たちの死も罪の代価として当然です。しかし、神様はその苦労と同時に慰めを用意されています。私たちが苦労を通して、心に建てられた偶像を取り除き、神様の御言葉で心の穴を満たす時、私たちを苦しめる苦労は、もはや苦労ではなく、栄光となるのです。

 ヒゼキヤは先が見えない中で、エジプトに付くか、アッシリアに付くか、バビロンに付くか悩みました。しかしイザヤはいつも、じっとして主により頼むよう教えていました。私たちも同じです。私たちも先が見えない中で、自分の力でなんとかして抜け出そうと悩みます。しかし聖書はいつも、主により頼むように教えています。水に溺れた時、慌てて力を入れて自力で泳いで助かろうとすれば、助かりません。逆に、落ち着いて力を抜いて、浮力で浮き、助けを待てば、助かります。同じように、溺れている私たちが今すべきことは、心にイエスを迎え、主が栄光を表すための場所を準備をすることです。

4。まとめ 

 終わりの見えない苦難の中にいる時、私たちはどうすればいいでしょうか?諦めないでください。必ず慰められる日が来ます。たとえ私たちがどれだけ裏切って罪を犯したとしても、神様は私たちを見捨てません。一人息子のイエスを犠牲にするほど、神様は私たちを慰めようとしておられます。必ず苦労が終わる日が来ます。私たちに抜け出す力がなくても、神様が働いておられます。人間の想像を超えた解決方法で、神様は苦労を終わらせてくださいます。その日のために、心に主の道を作りましょう。ただ待つのではなく、主を迎えるための心を作るのなら、苦労は栄光に生まれ変わります。 

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