20250209日曜午後礼拝
聖書:イザヤ39:4−6
題目:バビロンに認められたい心
内容:ヒゼキヤの主にへりくだった涙の祈りは、病を癒し、寿命を増やし、アッシリアの撃退をもたらしました。一方で、ヒゼキヤのバビロンに認められたいという心が、バビロンによるユダの滅亡をもたらすことになりました。人生において、どれだけ持っているかが重要ではなく、心の向かう先がどこなのかが重要なのです。心を惑わすこの世の物を捨ててでも、この世ではなく神様に認められたいという心を大切にしましょう。
説教者:高曜翰 副牧師
“イザヤは言った、「彼らは、あなたの家で何を見ましたか」。ヒゼキヤは答えて言った、「彼らは、わたしの家にある物を皆見ました。倉庫のうちには、彼らに見せなかった物は一つもありません」。 そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「万軍の主の言葉を聞きなさい。 見よ、すべてあなたの家にある物およびあなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない、と主が言われます。” イザヤ書 39:4-6 口語訳
1。認められたい心
「認められたい心」というのは、行動の原動力となるプラスの面があります。しかし、この思いが強くなりすぎるとマイナスの面が大きくなります。期待通りに行かなければ、不満を持ったり不安になったりします。そして、行動の基準が自分ではなく他人になるため、自由を失います。SNSの普及により、手っ取り早く認めてもらえる時代になりました。「インスタ映え」という言葉が流行したことからもわかるように、実生活よりもSNS上の見栄えに、近くの特定の人々よりも遠くの不特定の人々に期待するようになりました。しかし、認めてくれない近くの人よりも、認めてくれる遠くの人に焦点を置いたところで、「認められたい心」に満足を与えることはできていないようです。私たちにが本当に満足し平安を手に入れる為には、誰に認められるべきなのでしょうか?
2。ヒゼキヤの認められたい心
今日はイザヤ書38−39章のお話です。聖書の順番としては、アッシリアのエルサレム包囲(36−37章)の後にありますが、時系列的にはその前に起きた出来事だと考えられています。38章は、病気になったヒゼキヤ王から始まります。そこに預言者のイザヤがやってきて、「家を整理しなさい。あなたは死にます」と言いました(38:1)。病名は不明ですが、腫れ物ができて死ぬ病気のようです(38:21)。なぜ死ぬようになったのでしょうか?エジプトと同盟を結んだからでしょうか?アッシリアに降伏宣言をしたからでしょうか?それとも罪とは関係なく神様の計画だったからでしょうか?理由は不明ですが、ヒゼキヤは涙を見せました。「真実と真心をもってあなたの目に適うことをしたのを思い出してください」と祈りました(36:3)。これは自分の業績を自慢しているのではなく、壁に向かっていることからも、謙遜な態度で神様にお願いしているのです。神様は「あなたの祈りを聞き、涙を見た」と憐れみを示しました(38:5)。ヒゼキヤの善行ではなく、ヒゼキヤの涙を見て、主が計画を思い直されたのです。そして、干しいちじくを腫れ物につければ治ると教え、日時計を10度巻き戻すという印を与えて、約束してくださいました。その約束の内容とは、3日目には病気が癒やされ、主の宮に上ることができる(列王下20:5)、寿命が15年伸びる、ヒゼキヤとエルサレムをアッシリアから救うという3つの内容でした。ヒゼキヤは、「我が苦しみは我が幸せのためだった。あなたが罪を捨てられた」(38:17)、「主は私を救われる。世にある限り、主の家で琴に合わせて歌おう」(38:20)と神様を称えています。死に直面し全てを失うことで、罪から遠ざかり、様々な問題が山積みの中でも、主と共にいることを喜ぶ事ができたのです。
ところがヒゼキヤは致命的な失敗をしてしまいます。39章は、病気が治ったヒゼキヤ王から始まります。そこにバビロンからの使者がやってきて、贈り物と手紙をくれました。送り主は、アッシリアに抵抗を続けるメロダク・バルアダンというバビロンの王でした。なぜお見舞いにきたのでしょうか?内容は不明ですが、ヒゼキヤの行動から推測するに、反アッシリア同盟参加の要請だと考えられます。同盟に参加する条件として、国家の戦力を示すことはよくあることです。わざわざ遠い国から、力ある王が、弱っている自分をお見舞いするために使者を送ったのだから、ヒゼキヤは大変喜びました。そして、倉庫も金庫も武器庫も全部その使者に見せたのです。それに対してイザヤは「彼らはあなたの家で何を見ましたか?」と怒りを表し、預言をしました。その預言の内容とは、家にあるものが全てバビロンに持ち去られること(=バビロン捕囚)、子孫たちが連れ去られて王の宮殿で宦官になること(=ダニエルなど)という内容でした。ヒゼキヤは、「あなたが言われた主の言葉は結構です」「少なくとも自分の世には太平と安全がある」と答えています(39:8)。これは、自分さえ良ければいいという無責任な反応なのか?それとも自分の時代は神様が守ってくださるという確信を持った反応なのか?それはわかりませんが、バビロンに認められたいヒゼキヤの心が、滅びへの道を作ってしまったのは確かなようです。
3。私たちの持つべき心
今日のヒゼキヤの失敗を通して3つのことをお話しします。1つ目は、 この世に認められたい心が滅びをもたらすということです。
“偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。”
マタイによる福音書 23:13 口語訳
イエスはパリサイ人が天国に入れず滅びる存在である事を教えました。なぜでしょうか?確かにパリサイ人は律法を良く守って正しい行いをしていました。しかしそれは、神様ではなく、人々から認められて称賛を受けるためだったからです。パリサイ人が愛していのは神様でも隣人でもなく、自分であり、お金だったからです。パリサイ人は名声など沢山のものを持っていましたが、この世に認められたい心によって滅びる存在になってしまったのです。
同様に、ヒゼキヤのバビロンに認められたい心が破滅をもたらしました。メロダク・バルアダンに認められるために全てを見せてしまったのです。神様が守ると言っているのですから、丁重に断るべきでした。ヒゼキヤの認められたい心から出た行動は、バビロンによる滅びという神様の計画を実行に移させることになりました。
何が私たちの人生を滅ぼすのでしょうか?何かが足りないからではありません。お金や学力、健康、人間関係が原因でもありません。神様から離れる高慢な心が原因です。お金でもそれ以外のものでも、私たちを神様から離れさせるのなら、ないほうがずっと良いです。もし、受験生で勉強しないといけないからと言って、家の手伝いをしない学生がいるのなら、そんな学校は行かせない方が良いです。子供と親の関係を壊してまで、手に入れるべきものなどないのですから。逆に、ヒゼキヤは健康も命も失うことで、謙虚になり、神様との関係が近くなりました。そして自分の命に感謝し平安を得たのです。必ずしも、得るものが多いから感謝したり平安になるのではありません。失う事を通しても感謝したり平安になることができるのです。この世に認められたいという心は危険です。Instagram、TiktokなどのSNSを見てみると、他人から認められたい人々で溢れています。そして、認められるために、自慢し、嘘をつき、そして争います。認められたいその先には、感謝と平安ではなく、不満と不安しか残りません。
2つ目は、へりくだった心は神様の計画を変えるということです。
“そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。”
マタイによる福音書 15:28 口語訳
イエスは、娘の悪霊を追い出すように頼むカナン人女性の願いを無視しました。「イスラエルの羊以外には遣わされていない」と言いました。神様の計画では、カナン人女性の娘の救いはこの時ではないということです。しかし、その女性は引き下がりませんでした。イエスは「子供たちのパンを子犬に投げてやるのは良くない」とさらに女性を拒否しました。しかしまた女性は「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずは頂きます」と答えました。すると、神様は計画を変えて、イエスを通してカナン人女性の娘を癒しました。へりくだった心が神様の計画を変えたのです。
同様に、ヒゼキヤのへりくだった心が神様の計画を変えました。病気で死ぬ予定でしたが、涙の祈りが神様の憐れみをもたらしたのです。神様は憐れみによってその計画を修正されるお方であることがわかります。
私たちの人生を変えるには何が必要でしょうか?学歴、経済力、健康、家庭環境、人間関係などは、確かに大きく影響しますが、私たちの持っているものが人生を根本的に変えるのではありません。私たちのへりくだった心が神様の憐れみの中で、私たちの人生を変えるのです。人生において、病気が癒やされ、寿命が延びて、脅威から守られるのは私ではなく主が憐れみによってなされるということです。
そのため、最後に言いたいことは、主に認められたい心を持とうということです。
“誇る者は主を誇るべきである。 自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。”
コリント人への第二の手紙 10:17-18 口語訳
パウロは、自分を自分で推薦する人に気をつけるよう手紙を書きました。当時、コリント教会には、パウロを見た目や話し方で判断し、自分で自分を推薦する人々がいました。そういった人々の目的は、神様を誇ることではなく、自分を誇ることでした。彼らは人々に認められるために自分を推薦していたのです。まともなキリスト教会と異端の教会との間にある大きな違いの一つは、神様に焦点を当てさせるか、人に焦点を当てさせるかです。異端は神様ではなく、神様を利用して人を信じさせ、人に注目させます。だからパウロは気をつけなさいと手紙を送ったのです。
ヒゼキヤがたくさんの失敗をしたにも関わらず、良い王様である評価はどこから来るのでしょうか?軍事力、経済力、政治力、カリスマ性などの目に見えるものではありません。主の前にへりくだる心によって、良い王様であるとの評価を受けたのです。その心によって、神様の憐れみを受け、アッシリアを追い返すことができたのです。
私たちは、自分の心がどこに向かっているのか注意して見てみましょう。自分がどれくらい持っているか、人にどのように見られているかでその行動を決めていませんか?人に認められるための行動ならやめましょう。今ここで、私たちに必要なのは、主に認められるためのへりくだった心なのです。
4。まとめ
この世に認められたい心が、私たちに滅びをもたらします。何かが足りないからではありません。逆に、へりくだった心は神様の憐れみをもたらし、神様の計画を変えます。私たちの努力や成果によるものではありません。それゆえ、この世ではなく、主に認められるための心を持って今を生きていきましょう。
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