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アッシリアを恐れる心(イザヤ37:3-4)
고요한 2025-02-02 추천 0 댓글 0 조회 10
20250202日曜午後礼拝

聖書:イザヤ37:3−4

題目:アッシリアを恐れる心

内容:アッシリアを恐れる心がある限り、私たちは振り回され続け、平安がありません。恐れる心をなくすためには、自分を見ず、相手を見ず、神様だけを見てください。神様だけを恐れる時、私たちの心からアッシリアを恐れる心はなくなり、平安を得ることができるでしょう。

説教者:高曜翰 副牧師

 

“彼らはイザヤに言った、「ヒゼキヤはこう言います、『きょうは悩みと責めと、はずかしめの日です。胎児がまさに生れようとして、これを産み出す力がないのです。 あなたの神、主は、あるいはラブシャケのもろもろの言葉を聞かれたかもしれません。彼はその主君アッスリヤの王につかわされて、生ける神をそしりました。あなたの神、主はその言葉を聞いて、あるいは責められるかもしれません。それゆえ、この残っている者のために祈をささげてください』」。”

‭‭イザヤ書‬ ‭37‬:‭3‬-‭4‬ 口語訳‬

 

1。恐れる心

 恐怖心は自分を守るためや、正しく生きるために必要です。しかし間違った恐怖心は逆に自分を危険にし、間違った道に導きます。この世には、相手に間違った恐怖心を植えつけようとする人々がいます。相手を孤立させ、要求を通りやすくさせることが目的です。2004年のイラクや2014年のイスラム国で日本人が人質になる事件が多発しました。要求は自衛隊の撤退だったり、身代金の要求だったり、死刑囚の解放だったりしました。多くの人々は人質の身を案じましたが、一部の人々は、人質になった人々を自己責任だと批判したり、政府の行動を批判したりする論理のすり替えが起こりました。しかし、その仲違いこそが、要求を通りやすくするためのテロリストたちの真の目的なのです。悪魔も似ています。悪魔が私たちに恐怖心を与える1番の目的は、神様から離れさせることです。神様から離れてしまえば、後は悪魔の言いなりなるしかないのですから。

 

2。ヒゼキヤの持っていた心

 ヒゼキヤ王の背景について説明する時、年代の問題が発生します。ヒゼキヤ王については、列王記下、歴代誌下、イザヤ書に書かれているのですが、いつ即位したのかがはっきり断定できないからです。今回は矛盾が少ないと考えられる解説を採用して説明します。ヒゼキヤ王は前727年に13歳で即位し、父のアハズ王と共同統治を始めました。前722年、18歳でサマリヤ陥落を見ています(2列王18:10)。前715年、父の死後、25歳で単独統治を始めました。その年から、正しい礼拝を回復するため、レビ人や祭司を呼び戻し、神殿を修理しました。また、偶像の破壊、過越の祭りの回復、モーセのヘビを撤去しました。ユダ王国の中で、彼ほど主に信頼している王はいなかったと言われています(2列王18:5)。どこへ出陣しても勝利を収め、ペリシテ人を撃ってガザまで占領するほどでした(2列王18:7)。残念ながら一方で、エジプトや周辺諸国、バビロンと反アッシリア同盟を結ぶこともしています。

 紀元前701年、単独統治14年目にアッシリアの王セナケリブが侵攻して来ました。 フェニキアの海岸都市から始まり、ペリシテ、モアブ、アンモンを征服し、エジプト軍をも撃退しました。そしてユダの46の町々を次々に征服しました。預言者ミカの故郷モレシテもこの時に攻略されたようです。そして、その中にはエルサレムの次に重要な都市であるラキシュも含まれていました。ラキシュの町では、ユダヤ人兵士を串刺しにし、皮を剥ぐといった残虐行為が行われたそうです。アッシリア側の資料に記録が残っています。

 それを聞いてヒゼキヤ王は、「私は罪を犯しました。どうぞ引き上げてください。何でもします」と降伏宣言をしました(2列王18:13)。そして、銀300と金30タラントを、神殿と王家から剥ぎ取って与えたとあります。アッシリアの文献では20万人の男女、馬、らば、ロバ、ラクダ、うし、羊なども捧げたとあります。アッシリアを恐れたからなのか、他に理由があったのか、ヒゼキヤ王の真意は不明ですが、アッシリアはすぐにはエルサレムに侵攻しませんでした。一方で、正確な時系列は不明ですが、ヒゼキヤ王は戦争準備をしました。アッシリア軍に利用されないようエルサレムの外にある水源を全て塞ぎました(2歴代32:3)。また、城壁を建て直し、武器を製造しました(2歴代32:5)。そして、「恐れてはならない。主が我々に代わって戦う」と民を集めて励ましました(2歴代32:8)。

 貢物を受け取ったアッシリアですが、撤退せずに、ラキシュからエルサレムに、大軍を率いたラブシャケを送ってきました。ラブシャケはエルサレムの高官たちを無視して、直接民衆にヘブル語で語りかけてきました。恐怖心を与え、民衆と指導者たちを離反させることが目的です。内容は以下の3つです。1つ目はエジプトは頼りにならない、ということです。エジプトを「傷んだ葦」と表現しました(イザヤ36:6)。役に立たないということです。そしてアッシリアで1番弱い将軍の軍隊ですら、エジプトの国家の軍隊に勝てると豪語しています。実際にアッシリア軍は、エジプトの援軍を撃退しています。また、「パロは寄りかかる者を刺す」と表現しています(36:6)。エジプトは頼る者を逆に傷つけるということです。実際、エジプトは、逃げてきたアシドドの王をアッシリアに引き渡しました。2つ目はヒゼキヤ王は頼りにならないということです。ヒゼキヤ王が「高き所と祭壇を取り除いた」ことを非難しています(36:7)。偶像崇拝をなくすための良い行いですが、人々の心の拠り所を奪う悪い行いだと、悪い方向で解釈しています。そしてヒゼキヤ王が「主に頼れと」言ったことを非難しています(36:12−17)。主なる神ではなく、アッシリア王に頼れば、自分のぶどうを食べ、自分のイチジクを食べ、自分の井戸を飲むことができ、糞尿ではなく、穀物、葡萄酒、パン、オリーブ、蜜のある地で生きながらえることができると誘惑しています。3つ目にあなたたちの神は頼りにならないということです。「これまでどの神がアッシリアから救ったか?」と尋ねています(36:18−20)。どの神もアッシリアの手から救い出せなかったから、ユダの国の神も同じだと、神様を侮辱しています。また「神がいるなら私を止めただろう」と言っています(36:10)。アッシリア軍がここまで来れたのは、その神の許しのおかげであると言っています。ラブシャケは、仲違いさせるためにこのようなことを言って、恐怖を人々に与えました。

 しかし、ヒゼキヤと民衆はアッシリアを恐れませんでした。民衆は、王の命令に従って、黙って一言も答えなかった、とあります(36:21)。怖くて答えられなかったのではなく、脅しに怯まず、神様と王とを信頼していたがために、答えなかったのです。そしてヒゼキヤ王は、イザヤに祈りを求めに行きました(37:3−4)。そして「今日は悩みと責めと辱めの日です」と言っています。悩みとは、アッシリアの侵攻のことで、責めとは、エジプトに頼ってしまったことへの後悔、辱めとはラブシャケの言葉のことです。そして「胎児が産まれようとしてるが、生み出す力がない」と続けています。いつか終わる苦しみであり、この苦しみを乗り越えれば喜びがあることを知っているが、とても苦しく耐える力がないことを告白しています。「主がラブシャケの侮辱する言葉を聞いたので責めるだろうが、そのため残っている者のために祈ってください」とイザヤに祈りをお願いしています。この祈りから、ヒゼキヤがアッシリアではなく、神様を恐れていることがわかります。ラブシャケを通して悪魔は、人々を神様から切り離し、霊的ではなく肉体的な判断をさせようとしましたが、失敗しました。ヒゼキヤの神様を恐れる心がより大きかったからです。その祈りに対して神様は、「アッシリアの王の僕が言った侮辱する言葉を聞いて恐れる必要はない。アッシリア王は自分の国に帰ってその国で剣に倒れる」とイザヤを通して答えました(37:6−7)。

 その後ラブシャケは、エジプトと戦うため、一時撤退し、セナケリブ王と合流しました。そこでラブシャケは、わざわざ主なる神を侮辱し、ヒゼキヤを不安にさせる手紙を送離ました。それを読んだヒゼキヤは直接神様に祈り、神様を侮辱したアッシリアの王を訴えました。すると主は、「アッシリア王はエルサレムに入ることはできない。私は自分のため、私の僕ダビデのためにエルサレムを守って、救おう」と言いました(37:33−35)。その結果、天使が夜のうちにやって来て、アッシリア兵185,000人を撃ち殺したのです(37:36)。セナケリブは顔を真っ赤にしてニネベに逃げ帰りました(37:37)。これは主を恐れる心が勝利をもたらした奇跡だと言えるのではないでしょうか。

 

3。アッシリアへの恐れる心を消す方法

 アッシリアがもたらすような間違った恐れは、現在の私たちの周りにもたくさんあります。その恐れに負けると、私たちは神様から離れてしまい、人の脅しに振り回される人生を生きるはめになります。そうならないためにも、ヒゼキヤとイエスを通して、間違った恐れる心を消す方法は何かを見ていきましょう。

 1つ目は完璧主義を捨てることです。イエスは弟子たちを力付けるために、伝道の心構えを教えました。

“弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。 弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。” ‭‭マタイによる福音書‬ ‭10‬:‭24‬-‭25‬ 口語訳‬

伝道するということは、「狼の中に羊を送り出すようなもの」です(10:16)。しかしイエスは、成果が出るまで踏ん張りなさいとは言いませんでした。むしろ「迫害を受けるなら次の町に逃れなさい」と言いました(10:22)。その理由は「弟子が先生を超えることはなく、僕が主人を超えることはない」からです。「主人が悪口を言われたら、僕はもっと悪口を言われる」からです。先生であり主人であるイエスですら、伝道がうまくいかず、たくさんの誹謗中傷を受けました。それなのに、弟子であり僕である私たちが、完璧にこなすことは不可能です。イエスは結果が問題ではなく、自分にできることをすることが大事だと教えています。

 ラブシャケは民衆がヒゼキヤに失望するように恐怖を煽りました。しかしヒゼキヤは事前に、水源を止めたり、武器を作ったり、城壁を修復したりできる範囲のことだけをしましたが、アッシリアを撃退するには全然足りません。しかし、それ以上のことはせず、民衆には反論せずに、静かにじっとするように伝えたのです。人は不安になるとじっとしていられなくなります。ヒゼキヤがエジプトと同盟を結んだのもそのためでしょう。しかしそれは神様の前に正しいことではありませんでした。逆にエジプトが頼りにならなくなった時、ヒゼキヤは神様にだけ頼るという正しい選択をしました。その選択がエルサレムを救うことになったのです。

 人はついつい自分で範囲を決めて、その中で完璧にしようとする癖があります。何か問題があると足りない部分を見て悔しがり、完璧にするためにあれこれします。それが自分の能力内にある場合はいいのですが、自分の能力以上の結果を求めるようになったら危険です。失敗したどうしよう、失ったらどうしよう、という恐怖がやってきます。しかしこれらは、本来なら必要のない恐怖であり、過信や高慢が生み出したものに過ぎません。人は完全な存在ではないので完璧にすることはもともと不可能なのですから。完璧を求めるのではなく、最善を尽くすのです。ちなみにその違いはなんでしょうか?それは自慢できるかどうかです。自慢するのなら、完璧を求めているのかもしれません。なぜなら最善を尽くすことは、当たり前のことで、自慢にならないからです。完璧主義を捨てるだけでも、私たちは多くの恐怖を取り除くことができます。

 2つ目は主だけを恐れることです。神様を正しく恐れることができれば、他のものを恐れなくなります。

“また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。” ‭‭マタイによる福音書‬ ‭10‬:‭28‬ 口語訳‬

「恐れるな」と言われても、恐れはなくなりません。しかし、より大きな恐怖を体験することで、他の恐怖がなくなります。そして神様を恐れるとは、神様を知ることです。「恐れなさい」と言われても、恐れが生まれるわけではありません。しかし、神様を知ることで、自然と恐れるようになります。

 ラブシャケは、降伏するなら良い暮らしを保証するが、逆らえば、今の暮らしも、命もなくなると脅しました。神様を知らなければ、世界を支配するアッシリアの言うことを聞くしかありません。しかし、ヒゼキヤは、全てを支配する神様を知っていました。偶像を打ち壊し、礼拝を回復する働きを通して、神様の恐ろしさを知っていたのです。だからラブシャケと交渉するのではなく、イザヤに会いに行ったのです。そしてその祈りに見られるのは、アッシリアに対する恐れではなく、神様の名を汚したことに対する恐れです。

 私たちに恐れが多いのは、本当に恐ろしい方を分かっていないからです。無知が恐れを生じ、知れば知るほど恐れることが減っていきます、神様の場合は、知れば知るほど恐れることができます。そして他のものへの恐れがなくなっていきます。

  

4。まとめ

 私たちの心にはアッシリアを恐れる心があります。それはこの世を恐れる心です。その恐れは、私たちを神様から引き離し、間違った判断をさせます。そこには自由も平安をありません。この恐れを打ち消すにはどうすればいいでしょうか?1つは、完璧主義をやめることです。完璧主義は、失敗や失う恐れを次々と作り出します。今持っているものに感謝して、自分の水準に満足することで、恐れをなくすことができます。自分が完璧になろうとせず、最善を尽くして、後は完璧な神様に任せてください。もう1つは、神様だけを恐れることです。神様を正しく恐れることができるのなら、私たちは他のものに恐れることがなくなります。そのためには神様を知ることです。神様を知れば知るほど、私たちは神様を恐れることができます。人がどんな脅しをしてきたとしても、恐れることは少なくなってくるでしょう。なぜならもっと怖い神様が私たちの味方だからです。神様を恐れる心にこそ平安があることを忘れないでください。
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