20250126 日曜午前礼拝
聖書:ミカ6:6−8
題目:主が私たちに望むこと
内容:私たちが神様から離れて生きる時、自分の利益のために不正を行う愛を忘れた残念な存在になってしまいます。神様が私たちに望むことは、へりくだって神様と共に歩む人生を送ることです。そうすれば、私たちはこの世においても、神の国の正義を行い、誠実をもって兄弟を愛する存在になることができます。
説教者:高曜翰 副牧師
“「わたしは何をもって主のみ前に行き、 高き神を拝すべきか。 燔祭および当歳の子牛をもって そのみ前に行くべきか。 主は数千の雄羊、 万流の油を喜ばれるだろうか。 わがとがのためにわが長子をささぐべきか。 わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。 人よ、彼はさきによい事のなんであるかを あなたに告げられた。 主のあなたに求められることは、 ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、 へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。”
ミカ書 6:6-8 口語訳
1。テレビの目的
テレビを見れば、勉強になる番組がたくさんあります。ドラマなどを見ても学ぶべきことがあります。しかし、テレビではまともな勉強をすることは不可能です。なぜでしょうか?それはテレビの目的がお金儲けだからです。教育を目的とした学校とは違い、どんなに必要で勉強になる内容でも、テレビ局やスポンサーの不利益になる場合は、絶対に放送しません。だから、お金儲けのために偏った情報を流してしまうテレビではまともな勉強ができないのです。このように、正しい関係性を築くためには、相手の目的や望みを知らなければならないのです。そうでなければ、勝手に期待して、勝手に失望してしまいます。例えば、ピザ屋に来て、ハンバーガーを期待し、ハンバーガーを食べることができず失望する人がいれば、私たちはどう思うでしょうか?私たちの信仰生活も同じです。神様の望みが何かを何かを知らなければ、神様と正しい関係を築くことができません。勝手に期待して、勝手に失望してしまいます。神様が私たちに望むこととは一体何でしょうか?
2。神様から離れたエルサレム
預言者ミカはヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の時代に活躍した預言者です。イザヤと同期で、イザヤのように裸足と裸で御言葉を伝えることもした預言者です。出身はエルサレムより30kmほど南西にあるモレシテという場所で、ペリシテ人の地域に近い場所です。前701年にはアッシリアによって征服され、ペリシテ人の管理下に入りました。ミカは自分の故郷をユダとイスラエルの罪のために失ったのです。当時は、神の義を軽んじ、神の愛だけを強調して裕福層に取り入る偽預言者が多くいました。しかし、ミカはイザヤのように神の義を強調し、貧困層のために活動した預言者です。
当時のエルサレムは堕落していました。国が危機的な状況にも関わらず、指導者は不正を行い私服を肥やしていました。申命記17:16−17を見ると、王となる人は、自分のために馬、妻、金銀を多く増やしてはいけないとあります。指導者というのは、自分のためではなく人のために働く存在です。しかしミカ3:9−11を見ると、雇用主は労働者を不当に扱い、裁判官は賄賂を受け取り、預言者は人を喜ばせて金銭を受け取っていたのです。また、人々の間では愛がなくなっていました。レビ19:18では、あなた自身のように隣人を愛しなさいと神様が教えています。しかしミカ7:5−6を見ると、息子は父を軽んじ、娘は母に背き、嫁は姑に背くとあります。同じ国の兄弟だけでなく、家族ですら、自分が豊かになるための道具でしかなくなっていたのです。そして、人々は神を恐れず偶像崇拝を行なっていました。申命記6:5では、心と精神と力を尽くして神様を愛するように教えています。しかし実際は、ミカ6:6−7を見ると、神様を喜ばせるには何をしたらいいかもわからない状態でした。一歳の子牛、数千の雄羊、万流のオリーブ油、長男、子供を捧げればいいかと、自分たちの神様を他の偽りの神々と同じように考えていることがわかります。
そんなエルサレムの人々に、ミカは神様の求めることは以下の3つであると教えています。1つ目は、ミシュパートを行うことです。日本語では公義と訳されていますが、公衆の正義や社会正義という意味ではありません。原文のミシュパートとは、神の統治における正義を意味します。神様は、指導者たちに、自分の考える正義でも、人々が求める正義でもなく、神の国の正義を行うことを望んでいるのです。当時の例を挙げると、先祖代々から引き継いだ土地を、お金儲けのために売るのではなく、神様からの贈り物として守ることがミシュパートを行うことなのです。神様が指導者として立てたのは、お金儲けや自分の考える正義を行わせるためではなく、神の国の正義を行わせるためなのです。
2つ目は、へセッドを愛することです。日本語では誠実と訳されていますが、慈しみ、愛、恵みとも訳すことができます。しかし、根本的な意味は、契約の愛です。契約の愛と聞くと、堅苦しく無機質な感じがするかもしれませんが、結婚式の時に誓う愛のようなものだと考えてください。その時の感情で変わるような愛ではなく、結婚した夫婦の関係のように、感情に左右されない、終わることのない愛を指しています。エルサレムの人々は自分さえ良ければいいと考え、自分だけを愛し、神様も人も裏切りました。しかし、神様はそんな人々をへセッドで愛してくださり、救いを約束してくださいました。神様は、同じ愛で私たちも隣人を愛することを望んでいるのです。
3つ目は、へりくだって神様と共に歩むことです。1つ目と2つ目は人に対する態度ですが、3つ目は神様に対する態度についてです。そして、ミシュパートを行い、へセッドを愛するためには、前提条件として、神と共に歩む必要があるのです。なぜなら人は義を行うことができず、人を変わらず愛することができない罪人だからです。だから神様と共に歩むことで、神様から学ぶ必要があるのです。ただし、へりくだらなければなりません。それは神様が創造者であり、私たちは被造物だからです。アダムとイブは神様の基準ではなく、自分の基準を作り上げたために、罪人となり、神の国を追い出されました。人が自分の基準を降ろして、神様の基準に従うのが本来の被造物の姿なのです。へりくだらず共に歩むとするならば、それは必ず自分の基準で神様を判断し、自分の計画のために利用することになります。
3。地上に来たイエスの目的
ミシュパートを行い、へセッドを愛し、へりくだって神様と共に歩むことは、今の私たちにも神様が望んでいることです。それはイエスを見ればわかります。第一に、イエスはミシュパートを行うために地上に来ました。
“そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。”
ヨハネによる福音書 9:39 口語訳
日本語では「さばく」ためとありますが、ギリシャ語では「クリマ」とあり、これはヘブル語では「ミシュパート」のことを指しています。イエスは単に審判するために来たのではなく、神の統治における正義を行うために来たのです。人間の定めた自分勝手な正義ではなく、神様の正義が行われることで、弱者たちが強められるのです。実際に、イエスはミシュパートを行うために、パリサイ人と対立しました。民衆に人気のあるパリサイ人と仲良くなれば、もっとイエスの活動がスムーズに進んだことでしょう。しかし、イエスは人々に間違ったことを教えるパリサイ人を非難しました。彼らの心には、神様の統治における正義ではなく、自分が統治するための正義が詰まっていたからです。事実、パリサイ人の多くは、ミカの時代のエルサレムの指導者たちと同じように、自分たちの豊かさのために、社会的弱者を差別し、食い物にしていました。彼らの目的は相手を高めることではなく、自分を高めることだったからです。現代の私たちはどうでしょうか?自分の豊かさのために、他人を見下したり利用したりしていないでしょうか?例えば、牧師の目的が、人々の救いではなく、自分が豊かになるためだとすればどうでしょうか?そのような牧師から正しく聖書を学ぶことはできません。もし私たちの人生の目的が豊かに暮らすことなら、神様との関係を誤解しているかもしれません。私たちが今の立場にいるのは、私たちの努力の結果でも、豊かになるためでもなく、ミシュパートを行うためです。
第二に、イエスはヘッセドを教えるために来ました。
“『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。”
マタイによる福音書 9:13 口語訳
日本語では「あわれみ」と訳されていますが、ギリシャ語では「エレオス」と書かれており、これはヘブル語では「ヘセッド」のことを指しています。立派な生贄を捧げて偉そうにするのではなく、隣人をあわれむことを神様は望んでいるのです。私たちがどれだけ偉くなり豊かになったかは重要ではありません。神様にとっては、私たちが人を憐れむ存在になっているかが重要なのです。イエスは自分を高めることばかり考えるパリサイ人とは仲良くしませんでした。むしろ自分を罪人だと認める弱い立場の人々と一緒に飲み食いし、寝食を共にする時間を持ちました。その結果広まるスキャンダルも気にしませんでした。それは契約の愛であるヘセッドを人々に伝えることの方が重要だったからです。イエスは自分を高めるためではなく、自分以外を高め、神の愛を伝えるためにこの世に来たのです。現代の私たちはどうでしょうか?愛されることばかり考えて、愛することを忘れていませんか?例えば、牧師が自分を高めるために、教会を大きくして信徒数を増やすことばかり考えていたらどうですか?自慢するような牧師からは神様の愛を学ぶことはできません。もし私たちの人生の目的が自分を高めることだとするなら、神様との関係が間違っているかもしれません。私たちが今ここにいるのは、自分を高めるためではなく、神の変わらない愛であるヘセッドを伝えるためなのです。
第三に、イエスはへりくだって神と共に歩みました。
“キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。”
ピリピ人への手紙 2:6-8 口語訳
誰だって死ぬのは嫌です。しかし、イエスは神の身分を捨てて、十字架の死を受け入れました。それはへりくだって神様の計画に参加し、神様の栄光を輝かせるためです。イエスは様々な奇跡の力を持っていましたが、自分が賞賛を受けるためには使いませんでした。不当に逮捕され、不当に裁判を受ける時も、自分を低くして、受け入れました。イエスは最後まで、自分勝手な道ではなく、神様と共に歩む道を選んだのです。そのようなイエスだからこそ、ミシュパートを行い、へセッドを愛することができました。神様の望みは私たちが神様と共に歩く人生を送ることです。自分の計画ではなく、神の計画に飛び込み、自分の力ではなく、神様の力で生きることなのです。ノアの時代、カインの子孫は優れた技術で有名になり、ネフィリムたちはその力によって有名になりました。人々は力を追い求めましたが、その中でノアだけが神の前に恵みを得ました。なぜでしょうか?それは、ノアが神と共に歩む人だったからです。神の前に恵みを得るのは、自分を高めるために努力した人ではなく、神と共に歩む人であることを忘れてはいけません。
4。まとめ
私たちが正しい信仰生活を送るためには、神様が私たちに望んでいることを知らなければなりません。それは神の統治における正義であるミシュパートを行うこと、契約の愛であるへセッドを愛すること、そしてへりくだって主と共に歩むことです。私たちが今ここにいるのは、豊かになるためでも、人をうまく利用してきたおかげでもありません。神様が私たちに望むのはへりくだって主と共に歩む人生を送ることです。時が良くても悪くても、主の望む人生を送る人こそが、主と正しい関係にある人であり、主の恵みを受けるにうさわしい人になるのです。主と共に歩む人生を送りましょう。
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