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エジプトを頼る心(イザヤ31:1-3)
고요한 2025-01-18 추천 0 댓글 0 조회 32

20250119 日曜午後礼拝

聖書:イザヤ31:1−3

題目:エジプトを頼る心

内容:神の民を滅びに導くのは、「お金さえあれば」というお金に頼る心、「仕方がないじゃないか」という不義にも頼る心、「信じさせて」という人を頼る心です。持っているもので満足し、損をしても正しい選択をし、人は信じてあげるようにしましょう。神の民として神様だけに頼ることが平安への道です。

説教者:高曜翰 副牧師

“助けを得るためにエジプトに下り、 馬にたよる者はわざわいだ。 彼らは戦車が多いので、これに信頼し、 騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。 しかしイスラエルの聖者を仰がず、 また主にはかることをしない。 それにもかかわらず、主もまた賢くいらせられ、 必ず災をくだし、その言葉を取り消すことなく、 立って悪をなす者の家を攻め、 また不義を行う者を助ける者を攻められる。 かのエジプトびとは人であって、神ではない。 その馬は肉であって、霊ではない。 主がみ手を伸ばされるとき、 助ける者はつまずき、 助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる。”

‭‭イザヤ書‬ ‭31‬:‭1‬-‭3‬ 口語訳‬

1。過誤記憶

 人は完全に信頼できるような存在ではありません。なぜなら自分の記憶さえも間違っている可能性があるからです。過誤記憶とは実際とは異なることを、実際に起こったことのように記憶することです。アメリカの認知心理学者エリザベス・ロフタスの実験にこういうものがあります。自動車事故の映像を2つのグループに見せます。一つ目のグループには「車が衝突した時、どれくらいのスピードでしたか?」と尋ね、2つ目のグループには「車がぶつかった時、どれくらいのスピードでしたか?」と尋ねました。1つ目のグループの平均回答が66㎞/hに対して、2つ目のグループの平均回答は55㎞/hという結果になりました。また、一週間後に同じ人々を集め、「ガラスが割れるのを見ましたか?」と尋ねると、1つ目のグループでは32%が割れるのを見たと回答しましたが、2つ目のグループでは14%が割れるのを見たと回答しました。映像ではガラスが一枚も割れていなかったのにも関わらずです。この実験では人の記憶が言葉一つで記憶が作り変えられるあやふやな物であることを説明しています。実際、目撃証言を重視した結果による間違った判決も少なくありません。一般的に目撃証言の信頼性が低くなるのはこのためです。人を信頼するというのは危険な行為なのです。

2。エジプトと同盟を結んだユダ

 前回のイザヤ27章では、ユダがぶどうで、神様が農夫であり、アッシリア・バビロン・エジプトは滅ぼされる運命にある蛇であることをお話ししました。アッシリアという大国の支配する世界でユダが生き残る方法は、自分でもヘビでもなく、神様に頼り全てを任せることです。ヒゼキヤ王は、父のアハズ王とは真逆の、神様だけに頼る宗教改革を行いました。その結果、神様に手入れをしてもらい、アッシリアによる滅亡を回避する実りを得ることができました。「ユダの全ての王のうちに彼に及ぶ者はなかった」(2列王18:5)と言われるほど、ヒゼキヤは神様との関係を正しく回復し、神様に喜ばれた王でした。そんなヒゼキヤ王ですが、いつも正しい選択ができていたわけではありません。残念ながら、3つのそれぞれの蛇に頼り、恐れ、喜ばせる失敗をしています。今日は1つ目の蛇であるエジプトに頼ってしまった失敗を通して、神様だけに頼るにはどうすればいいかを学んでいきましょう。

 アッシリアの迫り来る脅威の前に、ヒゼキヤはエジプトと同盟を組むことにしました。イザヤは3年間もの間、裸と裸足で、エジプトと手を組んではいけないと、人々に伝えていました(20:3)。それを知らないはずもないのに、エジプトと同盟を結んだのです。イザヤはそのヒゼキヤの行為を「死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」との評価を下しています(28:15)。なぜヒゼキヤはエジプトに頼って、神様を悲しませてしまったのでしょうか?

 第一に、ヒゼキヤの中にある、馬に頼る心が問題になっています。戦車が多く、騎兵が強いのでエジプトに信頼したとあります(31:1)。アッシリアの戦車と騎兵に対抗するためには、エジプトの戦車と騎兵が必要だと感じたのでしょう。かつてエジプトで生活をしていたイスラエル民族が持っている、強いエジプトの戦車と騎兵のイメージも関係しているかもしれません。これまでイスラエル民族は神の民として、馬ではなく、神様の言葉を聞いて生き残ってきた国です。正しいリーダーたちはそうして、国を守ってきました。しかしヒゼキヤは、神様の言葉に頼ることをせず、馬に頼る選択をしてしまったのです。

 第二に、ヒゼキヤの中にある、不義に頼る心が問題になっています。エジプトは偶像崇拝の国であり、エジプトに頼ること自体が不義となります。どんなにピンチだったとしても、イスラエル民族の選択は義を選択することが正しい選択でした。しかし、ヒゼキヤは助けになるのなら相手を選ばないような状態です。損得の勘定に忙しくて、善悪の判断ができていないのです。だから不義であるエジプトに頼ってしまったのです。

 第三に、ヒゼキヤの中にある、人に頼る心が問題になっています。ヒゼキヤは戦車が多く、騎兵が強いエジプト人が助けになると考えました。しかし、神様はエジプトを「休んでいるラハブ」と評価しています(30:7)。実際の力があり、頼もしく見えても、エジプトは何もしないし、役に立たないのです。ラハブとは「自慢」や「傲慢」を意味し、エジプトの性質を象徴しています。実際、ペリシテ、エドム、モアブなどの小国家たちもエジプトに助けを求めました。しかし、ペリシテ人国家アシドドの王は、アッシリアに敗れた後エジプトに逃げましたが、エジプトに裏切られ、アッシリアに引き渡たさています。エジプトは手を伸ばすことすらしてくれませんでした。ユダ王国の場合も同じでした。後にアッシリアがエルサレムを攻撃した時も、エジプト軍は救援にやって来ませんでした。援軍を送りはしたのですが、壊滅したという話もあります。どのみちエジプトは何の助けにもならなかったのです。人は力を持っているからと言って、それを他人のために使おうとは思いません。それなのに、ヒゼキヤはエジプト人が助けてくれると思ってしまったのです。

3。私たちの捨てるべき心

 ヒゼキヤ王の持っていた馬に頼る心、不義に頼る心、人に頼る心というのは、現代の私たちも持っている心です。しかし、これらを神様はとても嫌います。私たちがヒゼキヤと同じ罪を避けるためには、どうすればいいでしょうか?

 まず第一に、馬に頼る心を捨てましょう。現代の感覚で言えば「お金」に当たります。私たちはお金に頼る心を捨てることで、神様に頼ることができます。ヘブル人への手紙の著者は、「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい」(ヘブル13:5a)と言いました。それは、「神様が『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた」(ヘブル13:5b)からだと言っています。お金が悪いわけではありません。お金に頼る私たちの心が問題なのです。そしてお金に頼る心というのは、決して満足せず、お金さえあればもうちょっと落ち着くのに、、、という間違った考えです。私たちの今の苦しさは、お金が足りないせいではなく、お金が足りないせいだという考えのせいです。そういった考えの人の中心にはお金があります。だからお金を取られると、心が崩壊しそうになり怒るのです。ゲームを取り上げられると怒る子供とそうでない子供がいます。怒る子供はゲームが楽しみの全てだと考えます。だから怒るのです。怒らない子供は、それがあってもいいしなくても楽しみがあるから怒らないのです。問題はゲームではなく、ゲームが全てだという考えです。同様に、お金のせいで壊れた夫婦関係というのは、お金が問題ではなく、お金がないと生きていけないという考えです。信仰についても同じです。お金が問題なのではなく、お金がないと信仰生活ができない、お金がないと神様を愛せない、という考え方自体が問題なのです。それはお金がないと夫を、妻を愛せないといっているのと同じです。たとえお金がなくて、自分の欲しいものやしたいことができなくても、神様が共にいてくれることを喜びながら信仰生活をすることができれば、本当の幸せを得ることができるでしょう。生活水準を落としたり、望みを変えるなどして、何でもお金に結びつけない考えが必要です。現状に感謝しましょう。

 第二に、不義に頼る心を捨てることです。わざわざ頼ることは少ないと思うかもしれませんが、自分の願いが叶うことに重点を置いている人ほど、善悪にこだわらず手段を選ばなくなり、神様から離れてしまいます。ヘブル人への手紙の著者は、「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる‭」(ヘブル12‬:‭11‬)と言いました。神様は私たちに義の実を結ばせるために訓練を与えるのです。それなのに私たちが自分の目的を叶えるために不義を行うというのならば、神様の目的とはいつまでも達成されず、私たちの試練はいつまでも終わりません。人生の目標や祈りの目的を自分の願いが叶うことにしないで下さい。それは神様が私たちに求めていることではありません。神様の願いは、私たちを通して神様の願いが成就することです。そしてその道が私たちを義にするのです。私たちが義を求めるとき、神様が働かれるのです。損得勘定ではなく正しいこと選択して下さい。善悪にこだわらないという不義に頼る心では、決して私たちは神様から平安を得ることができません。

 第三に、人に頼る心を捨てることです。頼るというのは、それだけ信じられるということですが、人は信頼すべき存在ではありません。パウロは「全ての人は価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(‭ローマ3:24)と言いました。つまりキリストなしには、全ての人は義人になることができません。これは真実です。義を求めても、簡単に自分の利益を優先し、自分の決めたことも気分で変えます。人は信じるにも頼るにも値しない存在なのです。だから「信じさせて」と言って、相手を勝手に義人に作り上げ、裏切られたら相手を批判するのは、間違った行為なのです。それは、犬に勝手に期待して財産を預けて、失ったら犬のせいにするのと同じです。「信じさせて」という態度は両方共倒れになる危険性があります。「信じさせて」ではなく「信じてあげる」のです。神様は人を「信じなさい」とは言いませんでした。代わりに「愛しなさい」と言ったのです。愛するというのは、相手が信じるに値するかどうかに関係なく、信じてあげることです。人は信じてあげる存在であっても、信頼してはいけないのです。

4。まとめ 

 ヒゼキヤ王は神様の言葉を聞かず、エジプトに頼ってしまいました。それは馬に頼る心、不義に頼ってもいいという心、人に頼る心があったからです。私たちは同じ失敗をしないために、「お金があれば」という考えを捨てて、持っているもので満足しましょう。また、「仕方がないじゃないか」という考えを捨てて、たとえ損をしても正しい選択をしましょう。そして、「信じさせて」と人を信頼するのではなく、「信じてあげる」心で人と接しましょう。信頼できるのは神様だけです。神様だけを頼りましょう。 

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