20250112 日曜午後礼拝
聖書:イザヤ27:1−6
題目:主が実らせる
内容:私たちは農夫ではなくぶどう畑です。私たちぶどうが美味しく実を結ぶのは、自身の力ではなく、農夫である神様の手入れのおかげです。いくら周りに力強い蛇が取り囲んだとしても頼ってはいけません。目には見えなくても、その蛇を言葉で殺すことのできる神様を頼りましょう。そうすれば、私たちはその実を世界に満たすほど溢れさせることができます。
説教者:高曜翰 副牧師
“その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲りくねるへびレビヤタンを罰し、また海におる龍を殺される。 その日 「麗しきぶどう畑よ、このことを歌え。 主なるわたしはこれを守り、 常に水をそそぎ、 夜も昼も守って、そこなう者のないようにする。 わたしは憤らない。 いばら、おどろがわたしと戦うなら、 わたしは進んでこれを攻め、 皆もろともに焼きつくす。 それを望まないなら、わたしの保護にたよって、 わたしと和らぎをなせ、 わたしと和らぎをなせ」。 後になれば、ヤコブは根をはり、 イスラエルは芽を出して花咲き、 その実を全世界に満たす。”
イザヤ書 27:1-6 口語訳
1。ぶどうの栽培
ぶどうというのは、単に水やりと肥料だけでは美味しく育ちません。栄養分を集中させるために、枝を切る、芽を摘む、蔓を誘導する、葉を摘む、花を切る、房を摘む、実を摘むといった作業が必要です。また、害虫や病気を予防するために、木の皮を剥く、袋を掛けるといった作業も必要です。手入れに失敗すると、酸っぱいぶどうや腐った価値のないぶどうができてしまいます。美味しい価値のあるぶどうを作るためには、農夫の存在が必要なのです。聖書では、ぶどうの木はイエスキリストであり、私たちはぶどうの枝、神様は農夫であると教えています。私たち人間も同様に、神様の手入れなしでは価値ある実を結ぶことができないのです。だから人間もぶどうと同じように神様に頼るべきなのですが、残念ながら、人間は自分を農夫のような存在と勘違いし、本当の農夫の手入れを拒絶し、他のものに頼ろうとするのが現状です。
2。農夫である神様
イザヤ26章では、終末にイスラエルの人々が神様に歌う歌が書かれていました。完全な平和を与える強固な町に導いた神様に感謝する歌です。そして、その道は正しい者に与えられ、人間ではなく神様がその道を平らにされる、ということでした。今回のイザヤ27章では、終末に神様がイスラエルの人々に歌う歌が書かれています。イスラエルを苦しめる悪魔に勝利した神様がイスラエルを慰める歌です。そして、人は自分の努力や行いによるのではなく、神様に頼ることで実を結ぶことができるというのです。このイザヤの預言は、バビロンからの解放の日の出来事を指しているのと同時に、終末である「その日」を指しています。そのため、終末に向かう私たちにとっても重要な内容なのです。
1節を見ると、「その日」に神様が悪魔を滅ぼすことが書いてあります。「堅く大いなるつるぎ」とは神様の言葉を指し、「レビヤタン」とは悪魔を指します。元々レビヤタンとは神話に出てくる7つの頭を持つへびのことですが、神々に反逆する者を象徴しています。「龍」という言葉も出てきていますが、海獣やへびを表す単語であり、「レビヤタン」と同義だと考えてください。「逃げるへびレビヤタン」はアッシリア、「曲がりくねるへびレビヤタン」は「バビロン」、「海におる龍」はエジプトです。どれも力強い国ですが、サタンとその帝国、また反キリストを意味し、神様の言葉によって殺されることが決まっています。
2−3節では、神様の歌が始まります。かつて神様はイスラエルを「野ぶどう」と表現しました(5:2)。この時は、ヘブル語で「ベオシーム」という単語を用いていますが、これは「野生の」という意味だけではなく、「臭い」「価値のない」といった意味があります。今回はヘブル語で「へメッド」という単語を用いていますが、「麗しい」という意味に加え、「望ましい」という意味があります。神様が農夫として、ぶどうに常に水を注ぎ、昼夜問わず損なわないように見守り続けることで、価値ある存在になるのです。イスラエルを価値あるものに育てるのは、イスラエル自身ではなく、神様なのです。
4、5節では、神様が怒らないと言っています。いばらやおどろが攻めて来るなら全て焼き尽くすが、和解を望むのなら保護すると、敵に対しても寛容な心を見せています。いばらとおどろは同じようなものですが、細かく言えば、「いばら」はトゲのある木で、「おどろ」はトゲのある雑草です。どれもぶどうの成長を妨害する者たちです。「和らぎ」という部分は、ヘブル語では「シャロームを作る」という意味です。イスラエルが麗しきぶどう畑になったのは神様との和解のおかげであり、神様との間に平安を作ろうとしたからです。神様は、イスラエルにしたように、「いばら」や「おどろ」に対しても同じように哀れみをかけていることがわかります。
6節では、後にイスラエルが根を張り、芽を出して花を咲かせ、その実を全世界に満たすとあります。「後に」ということは、すぐにではなく、忍耐が必要であることを示唆しています。ぶどうが農夫の手に任されたからといってすぐに美味しい実を実らせる訳ではなく、手間と時間がかかるように、神との平和を作る者も、忍耐の後に実を結ぶということがわかります。つまりこの預言は、絶体絶命の状況下において生き残る方法は、蛇や龍などの力ある者に頼ることではなく、時間はかかっても、価値あるものに手入れしてくれる農夫である神様に頼ることだと教えているのです。
当時の南ユダのアハズ王は、危機的状況を迎えていました。アッシリアの重税に苦しむアラム諸国と北イスラエルが反アッシリア同盟を立ち上げ、勧誘を断った南ユダを攻撃したのです。紀元前735年に始まったシリア・エフライム戦争です。1日で12万人の兵と王の息子たちが失われ、20万人が捕虜として北イスラエルに連れて行かれました。これに乗じてペリシテ人とエドム人も南ユダの町々を襲い始めました。このような状況で皆さんならどうしますか?残念ながら、アハズ王は「静かにしていなさい」というイザヤの忠告を無視して、アッシリアに助けを求めました。そして、王家や神殿にある物をアッシリアに渡したのです。また、バアル崇拝に留まらず、神殿を閉ざして、アラムの神々を崇拝する祭壇をエルサレムの隅々に作りました。その結果、父や祖父の時代に得たものを全て失い、国をさらに危機的状況に導いたのです。それは、自分の考えで、蛇に助けを求めるようなことをしたためです。力ある者が助ける者ではないことを忘れてはいけません。
3。ぶどうの枝としての私たち
危機的状況においてこそ、私たちがすべきこととは何でしょうか?周囲を見渡して、頼りになる者を探すことではありません。まず第一に、イエスキリストに繋がっていることを確認することです(ヨハネ15:7)。イエスは、神の民は自分だけでは実を結ぶことができない、と言いました(ヨハネ15:4)。そして繋がっていないなら、投げ捨てられて枯れてしまい、人々がかき集めて焼いてしまうのです(ヨハネ15:6)。必ずイエスキリストに繋がっていなければなりません。そうでなければ、しおれるだけでなく、人々に利用されて捨てられてしまうのです。アハズ王の行いによってイスラエルは切り離されている状態でした。それを回復したのが、息子のヒゼキヤ王です。歴代誌下29−31章を見ると、彼はまず、神殿の修理と礼拝の回復を行いました。祭司たちとレビ人が楽器を持って賛美し、人々も喜んで賛美し、礼拝をしたとあります(2歴代29:30)。更なる危機的状況の中で、ヒゼキヤ王は政治的や経済的問題ではなく、神様との関係の回復を優先したのです。「勉強や仕事のせいで」「経済的な問題で」神様との関係が切れていませんか?家庭の中でも、勉強や仕事や経済的な問題以上に親子関係や夫婦関係が重要なように、私たちの人生においても他のことではなく、神様との関係の回復がとても大切なのです。
第二に、御言葉に留まることです(ヨハネ15:7)。それはイエスの戒めを守るということであり、戒めに留まるということは神の愛の中にいるということです(ヨハネ15:10)。それはイエスの喜びが私たちにあふれることにつながります(ヨハネ15:11)。ヒゼキヤ王は、いけにえを捧げることでモーセの律法を回復し、人々が神様の言葉を守るように導きました。イエスは互いに愛し合うことが戒めだと言いました(ヨハネ15:12)。愛の定義は1コリント13:4−8にありますが、「アガペー」という単語を元に端的に言えば、「見返りなく自発的に与える行為」を言います。危機的状況の中では、何をどれくらい手に入れるかが重要だと考えがちですが、そうではないのです。そういう時こそ、与えて喜びなさい、というのが神様の教えなのです。私たちは今、どれだけ神様に捧げ、人々に与えているでしょうか?真の喜びは御言葉に従い、与える所にあります。
第三に、望むものを求めることです(ヨハネ15:7)。ただし、実を豊かに結び、イエスの弟子となり、神様の栄光を受けるためです(ヨハネ15:8)。誰でも何でも好きなことを求めなさい、ということではありません。神様が栄光を受けるために望む時に与えられるのです。ヒゼキヤ王はアッシリアが18万5千という大軍を率いて攻めてきた時、イザヤと共に神様に祈りました。その結果、天使によってアッシリアの大軍は一夜にして全滅し、アッシリアの王は顔を真っ赤にして帰る羽目になりました。ヒゼキヤ王が祈ったのは、神の名を汚すアッシリア王に対する裁きのためです。ヒゼキヤ王とその民は天使の助けを得る前から、水路を塞ぎ、城壁を補修し、主が共にいるという事実に安心していました。主において平安を得ている人々は神様の栄光のために祈り、そして叶えられるという事実です。私たちは祈りを通して何を求めていますか?神様の栄光が現れることを求めていますか、それとも自分の栄光が現れることでしょうか?
4。まとめ
危機的状況においてこそ、どうすれば良いでしょうか?まず第一に、神様との関係を確認しましょう。私たちは農夫である神様のもとにいますか?もしく、この世の力ある蛇たちを頼ってはいませんか?蛇たちは神様の言葉によって滅亡する存在です。第二に、神様の御言葉に従い、愛に生きましょう。私たちが価値あるぶどう畑になるためには農夫である神様の手入れが必要です。神様の言葉に従い、与える存在になってください。自分の言葉に従うほど、私たちは酸っぱい価値のないぶどうになってしまいます。そして最後に、神様の栄光のためになることを求めましょう。私たちが神様の栄光を求める時、それは私たちが神様と和解し、神様の保護に入ったことを意味します。神様はご自分の栄光のために、和解した私たちの言葉を聞いてくださいます。大きな蛇のような存在に囲まれた時こそ、神様のもとに入りましょう。
댓글0개