20250302日曜午後礼拝
聖書:ヨハネ1:43-51
題目:ピリポとナタナエル
内容:ピリポとナタナエルはイエスの言葉によって心に火がつきました。特にナタナエルは自分を理解するイエスと出会うことで、その冷たい心を溶かすことができたのです。私達の理解者は人ではなく神様であり、重要なのは心に火をつけて神様の前に出ることです。自分を下ろして、人ではなく神様の言葉で心に火をつけましょう。
説教者:高曜翰 副牧師
“その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。 ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。 このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。 ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。 ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。 ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。 イエスは答えて言われた、「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。 また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。”
ヨハネによる福音書 1:43-51 口語訳
1。飯島藤十郎と飯島延浩
ヤマザキ製パンの創業者である飯島藤十郎(1910-1989)は最初、新宿中村屋で働いていましたが、社長の影響でクリスチャンになりました。「神は愛なり」の看板を掲げ、リヤカーでパンを歩き売りしていました。経営は順調でしたが、病気になり、一時期弟に経営を任せました。
ところが、病気が治っても「社主はまだ病気だ」と言われ、復帰できませんでした。役員会も聞く耳を持たず、長男の仲裁も役に立ちません。それどころか息子とも対立するようになりました。苦難の中で藤十郎は教会に通い始め、息子の提案を受け、妻と息子と一緒に洗礼を受けました。ところが11日後に、最有力工場の武蔵野工場が火事で全焼したのです。
藤十郎は「この火災は自分本位に仕事を進めてきたことに対する神の戒めだ。これからは神の御心に叶う会社に生まれ変わります」と告白し、苦難の中の更なる苦難において、自分を降ろしたのです。そして、長い争いの末、自分と弟が会社を去り、37歳の息子が社長になることで内紛を終えました。
飯島延浩(1941-)が社長となり、周りの仲間と喜びました。ところが延浩は、「苦しめ、悲しめ、泣け。あなた方の笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。主の前にへりくだれ。そうすれば主はあなた方を高くしてくださる」(ヤコブ4:9−10)という言葉を思い出し、内紛で傷ついた大勢の人に目を向けるようになりました。そして、人々の悲しみを自分のものにしようと決意したのです。
延浩は父から受け継いだ情熱を持って、「神の御心に叶う永続する事業の実現」を経営方針に、会社を運営していきました。また、東京都三鷹市にある土地300坪を教会に寄付し、千葉県市川市から毎週1時間かけて通い、聖書勉強会で御言葉を教えています。
また、被災地への食糧支援を食品企業の使命として考え、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、2024年の能登半島地震などでも、パンの支援を行いました。雪で配送トラックが動かなくなり、パンの配送ができないと判断された場合は、周囲のドライバーにパンを配ることもしています。飯島親子は、自分を下ろして御言葉で心を熱くしたため、長く事業を行なった一例と言えるのではないでしょうか。
2。ピリポとナタナエル
イエスは洗礼者ヨハネのいるヨルダン川東部のベタニアで弟子集めをしていました。そしてガリラヤに帰る前に、ピリポに「私についてきなさい」と声をかけたのです。ピリポはついていくことにしました。しかしその前に友人のナタナエルに声をかけることにしたのです。「私たちはモーセの律法や預言者の書に書かれている人、ナザレのイエスに会いました」。 「私たち」とは、同じベツサイダ出身のアンデレとペテロ(おそらくヨハネとヤコブを含む)を指します。ピリポは人々が待ち望んでいたメシアがイエスであると気づいたのです。
上記の発言から、ピリポは御言葉に精通していたことがわかります。ピリポは12弟子の中で唯一ギリシャ名です。おそらく父がユダヤ人でありながら、国際人で開けた人だったのでしょう。後に、イエスにやってきたギリシャ人の通訳をしていたことからギリシャ語が堪能だったと考えられます。ピリポはイエスの言葉を聞いて、情熱が生まれ、ナタナエルにイエスを勧めたのです。
しかし、ナタナエルは 「ナザレから、何の良いものが出ようか」と冷たい反応を示しました。なぜならナタナエルはガリラヤのカナ出身であり、ガリラヤのナザレ出身であるイエスを同じ田舎者と考えたからです。また、ナザレは過去に何人も偽物が出ていたことも影響しています。人々から見つけて認めてもらえるような場所ではないということです。しかし、情熱を得たピリポは「来て見なさい」と再度勧めました。ナタナエルは自分の考えを降ろして、イエスに会いにいくことにしました。
するとイエスは、「見よ、あの人こそ、本当のイスラエル人だ。その心に偽りがない」と言いました。ナタナエルは驚きを隠せず、「どうして私をご存知なのですか?」と返事をしました。本当のイスラエル人とは何でしょうか?イスラエルとは神様と争う者という意味もありますが、神様と共に歩む人という意味もあります。当時、血筋としてはイスラエル人でも、神様と共に歩まない偽物のイスラエル人が多くいたのです。サドカイ人やパリサイ人がいい例です。そんな中で、ナタナエルを本当のイスラエル人だと言うのです。
イエスは「ピリポが呼ぶ前に、私はあなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と返事をしました。「いちじくの木の下」は何を意味するのでしょうか?「いちじくの木の下」は神様のことを学んだり黙想する場所でした(ゼカリヤ3:10、ミカ4:4参照)。その場所にナタナエルを見たというのです。短期間だけベタニアにやってきたイエスが目撃したということは、ナタナエルがいつも「いちじくの木の下」で神様を求めていたということを意味します。イエスはそのナタナエルの思いを見抜いたのです。
ナタナエルは「先生、あなたは神の子です。イスラエルの王です」と告白しました。誰も見向きもしない自分の心を、見抜いて理解してくれたイエスに感動したのです。ナタナエルはペテロよりも先に「神の子、イスラエルの王」だとイエスの本質を告白しました。ナタナエルもまたピリポのように、イエスの言葉で情熱が生まれ、イエスの弟子になったのです。
3。心に火をつける神の言葉
第一に、私たちの理解者は、人ではなく神様です。
“しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、”
ヨハネによる福音書 2:24 口語訳
イエスは「彼らに自分をお任せにならなかった」とありますが、「彼らを信じなかった」という意味です。なぜなら「全ての人を知っている」からです。そしてその「全ての人」には私たちも含まれています。神様は私達の一番の理解者です。この世の人々は常に渇いています。だからもらうことを望み、自分に集中します。そのため、他人を理解する力もなければ、他人を本当に理解しようとする思いもありません。人は信じるに値しない存在です。そんな人に理解を求めて期待すると、必ず失望します。私達は、一番の理解者である神様に望みを置くべきです。
飯島藤十郎の場合も同じでした。兄弟ですらお互いに理解できず、受け入れようとしませんでした。そして息子ですら、対立する所まで行ったのです。家族ですら理解して受け入れることは不可能であることがわかります。
ナタナエルは人々に認められず、心が冷たくなっていました。人は受け入れられなければ、心を閉ざします。メシアに会いたい気持ちと知識はありましたが、心が冷たくなっていたため、最初はイエスを受け入れることができませんでした。自分を完全に理解できる人間がいない、というのが当たり前です。私達は世の人に理解を求めるのではなく、一番の理解者であるイエスを求めましょう。
第二に、神様は私たちの心に火があるかを見ます。
“あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。”
コリント人への第一の手紙 3:16 口語訳
私たちは神の栄光を表す神殿である、とパウロが言っています。神殿の目的は礼拝を捧げることです。旧約時代、大祭司アロンは火をつけて燔祭を捧げることで神の言葉を聞きました(出エジプト29:42)。つまり礼拝とは、神の言葉を聞くことです。それは、現代の礼拝の中心が説教である理由でもあります。しかし、旧約時代と同様に、新約時代にも礼拝に欠かせないものがあります。それは火です。大祭司は24時間、祭壇の火を消してはいけませんでした(レビ6:13)。同様に、私たちも祭壇と火があります。祭壇がイエスキリストであり、火が聖霊です。火である聖霊がないと真の礼拝を捧げることができません。そして、火は礼拝以外の時間も絶やしてはいけません。礼拝の時だけ火をつければいいと言うわけではないのです。そうしないと、エペソ教会が言われたように、燭台が取り除かれてしまいます(黙示録2:5)。私たちに重要なのは、常に聖霊に満たされて、神様の前に出ることなのです。
飯島親子は会社の問題を解決するために洗礼を受けました。これはこの世中心の自分を殺して、神様中心に生まれ変わることを意味します。彼らは洗礼を通して、過去の自分を殺し、新しく生まれ変わりました。だから火災という更なる問題が発生しても、不満を漏らすのではなく、信仰告白が口から出てきたのです。その心に火がついていた証拠です。
ナタナエルは、ピリポの情熱に負けて、自分の考えを下ろしてイエスに会いに行きました。その結果、イエスの言葉を受けて、心に火がつきました。これまでの黙想の時間が無駄ではなく、意味あるものに変わったのです。私たちは自分の考えを下ろし、神様の前に出た時、神様の言葉で心を熱くすることができます。
第三に、御言葉で火をつけましょう。
“彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。”
ルカによる福音書 24:32 口語訳
エマオへの道である弟子たちの目を開かせ、心に火をつけたのは、イエスから出た神様の言葉でした。私たちの心は神様の言葉によって火をつけることができます。この世はネガティブな言葉で溢れています。持っていない人には本当に冷たいです。そして、持っている人には賞賛の言葉を与えますが、その言葉も一時的に熱くなるだけで、すぐに冷めます。人は持っている物を見ますが、神様はその存在を見ます。人ではなく神様の言葉が、私たちの心を熱くし、使命に駆り立てます。
飯島延浩は神様の言葉によって、危機を乗り越えました。そして土地を寄付し、毎週礼拝するだけでなく、聖書を教える奉仕をしました。教会にいる間だけではありません。職場にいても、神様中心の会社を目指し、災害時には1番に食料支援をする使命を持って活動を続けています。
ピリポはナタナエルに拒絶されても「来て見なさい」と諦めない情熱がありました。神様の言葉で心に火をつけたためです。ナタナエルもイエスと出会い、御言葉を聞いて心が熱くなりました。イエスの死後も、ピリポはギリシャで殉教するまで、ナタナエルはインドで殉教するまで神様の言葉を伝える使命を持って生きました。
私たちはどのように生きていますか?心に火をつけて生きていますか?毎朝、起きてすぐにインスタやYouTubeをチェックしていませんか?この世のものばかり見聞きしていると心が覚めます。毎朝、起きて神様の言葉を聞きませんか?神様の言葉は心を熱くします。心に火をつけて毎日を生きることをお勧めします。
4。まとめ
① 私たちの理解者は、人ではなく神様です。
❶この世の人に理解を求めると、心が冷たくなります。
❷神様に理解を求めましょう。
② 神様は私たちの心に火があるかを見ます。
❶神様の前に出て火をつけると、人生が変わります。
❷持っている物ではなく、使命で生きるようになります。
③ 御言葉で火をつけましょう。
❶この世のものでは、火がついても一時的で、すぐに冷めます。
❷自分の考えを下ろして、神様の言葉を受け入れる時、心に火が付きます。
→1日を御言葉で始めて、毎日を熱い心で過ごしましょう。
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