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ロバに乗ったイエス(マルコ11:7−11)
고요한 2025-03-08 추천 0 댓글 0 조회 46

20250309日曜午後礼拝

聖書:マルコ11:7−11

題目:ロバに乗ったイエス

内容:イエスは、この世の王のように馬に乗った征服者としては入城しませんでした。反対に祭司のようにロバに乗った平和の使者として入城しました。それは、人々が望んだメシアの姿ではありませんでしたが、神様の望んだメシアの姿でした。だからイエスは神様によって高く引き上げられたのです。私たちも、イエスのようにロバに乗った平和の使者として生きていきましょう。

説教者:高曜翰 副牧師

 

“そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。 すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。 そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、 「ホサナ、 主の御名によってきたる者に、祝福あれ。 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。 いと高き所に、ホサナ」。 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。”

‭‭マルコによる福音書‬ ‭11‬:‭7‬-‭11‬ 口語訳‬

1。「マカベウスのユダ」

 私たちの使用する讃美歌の165番「さかえあれ、死に勝ちて」は、音楽の母と言われるゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデルが1748年に作曲したものです。「よろこべや、たたえよや」という題目の方が親しみがあるかと思いますが、原曲はオラトリオ「マカベウスのユダ」に使用された「見よ勇者は帰る」です。ちなみに、オペラは歌と音楽を中心とした舞台劇で、オラトリオは歌と音楽のみで表現する演奏会という違いがあるそうです。カトリック軍に勝利したイギリス国教会軍の将軍を祝うため作曲されました。

 「マカベウスのユダ」は、セレウコス朝シリアの支配下で、ゼウス崇拝が強要される時代のユダヤのお話です。前167年に反乱を起こした指導者マタティアの後継者として選ばれたのが、ユダ・マカべウスです。ユダは、敵の数の多さに怯む仲間を、「戦いの勝利は兵士の数の多さによるのではなく、ただ天の力によるのみ」と言って励まし、前164年、シリアの将軍を打ち破り勝利を収めました。そしてユダは馬に乗って、エルサレムに凱旋入城しました。そこにローマがユダヤと同盟を結びたがっているという知らせが届きます。とうとう祖国に平和が持たされると、人々は喜ぶところで、お話は終わります。マカベウスのユダは、ユダヤ人が求める理想のメシアの姿なのです。それでは聖書が見せるメシアはどんな姿で入城したのでしょうか?

 

2。エルサレム入城

 日曜日、イエスはエルサレムに入城する準備をベテパゲで行いました。弟子たちに「向こうの村に行くと、母ロバが繋がれていて、子ロバが側にいる。母ロバの紐を解いて、二匹とも私のところに連れてきなさい。誰かが何か言ってきたら『主が使います。またすぐ返します』と言えばすぐ渡してくれるでしょう」と言いました。ベテパゲはオリブ山にあるエルサレムに近い町です。弟子たちは言われた通り、2匹とも連れてきました。子ロバと母ロバを引き離すと暴れる可能性があるので、一緒に連れてくるのが正解だったでしょう。弟子たちは上着を両方のロバの座る部分にかけ、子ロバにイエスを乗せました。

 しかし、ここで疑問が出てきます。なぜわざわざロバに乗ろうとしたのでしょうか?ガリラヤから徒歩で来て、残り2-3kmをわざわざロバに乗る必要はないと考えられます。しかもなぜ子ロバに乗ったのでしょうか?一緒に連れてきた母ロバの方が大きくて力もあっていいと考えられます。

 その答えは、ゼカリヤ9:9の預言が成就するためだと言えます。つまり、自分が預言を成就するメシアであることを人々に見せるため、子ロバに乗ってエルサレムに入城する必要があったのです。そして、都合よく子ロバを借りることができたのは、神様の預言は、時になれば成就することを指しているのではないでしょうか。

 

“シオンの娘よ、大いに喜べ、 エルサレムの娘よ、呼ばわれ。 見よ、あなたの王はあなたの所に来る。 彼は義なる者であって勝利を得、 柔和であって、ろばに乗る。 すなわち、ろばの子である子馬に乗る。” ゼカリヤ書‬ ‭9‬:‭9‬

 当時、エルサレムの人口は4−5万程度でしたが、この時は20万以上に膨れ上がっていたと言われます。1週間後の過越の祭りに参加する人々が、各地から集まっていたためです。また、祭りの許可を出すローマの総督ピラトや、祭りに参加するユダヤの王ヘロデの付き人たちも来ていたことでしょう。そして、ベタニヤで死人ラザロを甦らせたイエスを見に来た人々でも騒がしくなっていたと言われています。そんな中で、イエスはエルサレムへ進みました。

 人々はイエスを王として歓迎しました。上着と木の枝を道に敷いて、「ダビデの子に、ホサナ(我を救いたまえ)」と声をあげたのです。また 大勢の弟子たちが喜びのあまり大声で「祝福あれ、主の名によって来られる王に」と賛美しました。それを聞いたパリサイ人が、賛美する人を叱るようにイエスに言いました。しかし、イエスは「この人たちが黙れば、石が叫ぶだろう」と反論し、人々の賛美を素直に受け入れました。エルサレムに向かう道には多くのお墓があります。「石が叫ぶ」とは、墓石のことで、死者が生き返ってでもその賛美を続けさせるだろう、と言いたかったのではとも考えられます。人々は大きな歓声を持ってイエスのエルサレム入城を受け入れました。

 一方で、イエスは王なる祭司として入城しました。王として入城するのなら、ユダ・マカベウスのように馬で来るべきです。それが戦いによる勝利の王として相応しい姿です。人々が期待するのも、ダビデのような征服者であり、王国の回復です。ロバは祭司や商人たちの乗り物であり、征服者には相応しくありません。だからこそ、イエスは征服者ではなく、平和の王として受け入れられるため、ロバに乗ってきたのです。これは人々が期待したメシアの姿ではありませんが、イエスの本質を表しています。政治的な回復ではなく、人々と神様との関係を回復させることが目的だからです。実際、イエスが入城して最初にしたのは、礼拝の回復でした。神殿であくどい商売をしていた人々を追い出し、神殿で本来入ってはいけない足の不自由な人を癒したのです。その後、イエスは、危険なエルサレムを離れ、ベタニヤに避難して夜を過ごしました。イエスは確かに歓迎されましたが、残念ながら、弟子たちも群衆も、イエスを正しく理解してはいませんでした。

 

3。エルサレム入城が教えていること 

 第一に、自分の中にある間違ったイエス像を打ち砕こう!ということです。

 

“そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。”

‭‭コロサイ人への手紙‬ ‭1‬:‭20‬ 口語訳‬

ユダヤ人の考えるイエス像は、前164年にセレウコス朝から独立を勝ち取ったユダ・マカバイです。軍馬に乗ってやってきた力強い救世主メシアの姿です。戦いで人の血を流し、この地上でユダヤ人に平和をもたらすために来ました。しかし、神様の計画したイエス像は違います。創世記3:15で神様が約束した、人々を死から解放するためにやってきた「女の子孫」です。戦争に不向きな子ロバに乗ってきた柔和な救世主メシアの姿が正しい姿です。その自身の血によって、人と神との間に平和を作るために来ました。私たちはイエスをどんな救い主として考えていますか?自分の目の前の問題を解決するために、イエスを礼拝をしているのなら、それは間違ったイエス像を作っていることになります。好きな相手に自分の理想像を押し付けるストーカーと大差ありません。この世の征服者ではなく、人と神とを和解させる調停者が、本来のイエスのイメージなのです。

 第二に、自分の中にある間違った計画を打ち砕こう!ということです。

 

“わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。”

‭‭ヨハネの黙示録‬ ‭1‬:‭6‬ 口語訳‬ 

人々は、自分を王として、自分の人生を計画します。ユダヤ人はどのようにすればローマから解放されるかを考え、サドカイ人はどのようにローマと共存して暮らせるかを考え、パリサイ人はどのように人々からの賞賛を受けて暮らせるかを考え、ヘロデ王はどのようにユダヤ人に認められ、王として生きていけるかを考え、総督ピラトはどのようにユダヤ人地域を平定しローマでの地位を高められるかを考えます。しかし、聖書が教えるのは、私たちは祭司として、自分の人生を計画すべきだということです。神様は、人々を神様のもとに連れてくる神の国の祭司として私たちを選びました。イエスは祭司でありながら、弱者を搾取する祭司の間違った違った礼拝を排除し、弱者が礼拝できるように助けました。私たちはどんな計画の中で生きていますか?神様が私たちを呼んだのは、良い学校に入って、良い会社に入って、良い地位に着くことができるようにするためではありません。神の国の祭司として、人々を神様の前に連れてくるために呼んだのです。

 第三に、ロバに乗った祭司のように生きていきましょう!ということです。

 

“わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。”

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭14‬:‭27‬ 口語訳‬

この世の王が与えるこの世の平安は、争いや問題など、外的要因がなくなった状態を指します。人と人との間の平安が中心です。しかし、簡単に崩れてしまいます。一方で、王なる祭司であるイエスが与える神の国の平安は、外的要因によって左右されません。人と神との間の平安が中心で、永遠に続くことができます。私たちはどのように生きたいですか?馬に乗ったこの世の王として、征服者として生きますか?それとも、ロバに乗った神の祭司として、平和の使者として生きますか?イエスのように、平和の使者として生きる時、神様によって王なる祭司となり、人々に永遠に続く平安を分け与えることができます。

 

4。まとめ

①自分の中にある間違ったイエス像を打ち砕きましょう!

②自分の中にある間違った計画を打ち砕きましょう!

③そしてイエスのようにロバに乗った祭司として生きましょう。 

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