20250323日曜午後礼拝
聖書:マルコ12:41−44
題目:内側を見るイエス
内容:このお話は、献金の心構えを教えているのではありません。神様が外側ではなく内側を見るお方であるという事実と、内側を正しく見るための見方を伝えています。私たちは外側に惑わされて滅びの道を行くのではなく、犠牲を払って愛し合い、主の道を歩みましょう。
説教:高曜翰 副牧師
“イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。”
マルコによる福音書 12:41-44 口語訳
1。賢者の贈り物
アメリカの小説家オー・ヘンリー(1862-1910)の書いた書物に「賢者の贈り物」というお話があります。とある貧しい夫婦が、12月24日に良いクリスマスイブを迎えるため、お互いにプレゼントをしようと考えました。しかし、不況のせいもあってプレゼントを買うお金がありませんでした。そのため、妻は自慢の長い髪を売って、夫が大切にしている金の懐中時計につけるためのプラチナの鎖を買いました。一方、夫は祖父から受け継いだ金の懐中時計を質に入れ、妻が欲しがっていたべっこうのくしを買いました。仕事が終わって夫が家に帰りましたが、二人は驚くことになりました。妻の長い髪がなくなっていて、くしが無駄になってしまったのです。また夫の懐中時計もなくなっていて、鎖が無駄になってしまいました。二人は家の中で最も価値のあるものを手放し、最も無駄な買い物をしてしまいました。二人はとても愚か者のように見えます。しかし著者は、この二人を最も賢い者たちであると評価しています。なぜなら、自分の大切なものを犠牲にしてまで、相手の喜ぶことをしたからです。二人は物質的に貴重なものを失いましたが、お互いに最大限の犠牲を通して最大限の愛情を受け取ることができたのです。このお話は、神の国の愛がどのようなものかを表しているのではないでしょうか。
2。献金を捧げるやもめ
本文の内容の舞台は、エルサレム神殿にある婦人の庭です。それまでイエスは、外見にこだわる律法学者が、偽善のため人一倍厳しい罰を受けることを教えていました。その後、そこにある献金箱を見つめました。それは人々に神様がどのように人の内側を見るのかを教えるためです。このお話から、外見に騙されないために、私たちが何に注目すべきかがわかります。トランペットのような形状で13個設置されていた献金箱に多くの金持ちがたくさんの献金を投げ入れていました。服装以外でも、投げ入れる時の音で金持ちかどうかわかります。多くの金持ちは、見栄のためにわざと音を大きく鳴らしていたそうです。そこに貧しいやもめが来て、レプタ銅貨2枚を投げ入れました。当時、夫を失った女性が生計を立てるのは非常に困難なことでした。やもめという言葉が極貧生活者を表していました。レプタ銅貨2枚は、現在の相場では150円程度ですが、1コドラントと言いなおしているのは、ローマ人読者にわかりやすくするためです。当時のローマの入浴料が1コドラントだったのです。そして、このレプタ銅貨2枚は、献金の最小推奨単位でした。つまりこのやもめは最も小さい献金をしたのです。
しかし、イエスの評価は全くの反対でした。「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げました」と言ったのです。それはイエスが、献金した金額ではなく、献金した後にやもめに残った金額を見ていたからです。やもめは沢山ある内の一部でも、2枚の内の1枚でもなく、持っているものを全て捧げ、手元には何も残りませんでした。それをイエスは評価しているのです。当時、ローマ帝国とエルサレム神殿に捧げる二重の税金に人々は苦しんでいました。そして、夫を失ったやもめは、当時最も貧しい存在です。持っているものを全て捧げるというのはまさに自殺行為です。しかしこのやもめは、持っているものを全て犠牲にして捧げたのです。それほどこのやもめは神様を愛し、信頼していたのです。この話は献金を捧げる時の姿勢を話しているのではありません。やもめはレプタ銅貨2枚を通して自分の全てを神様に捧げました。献金を通してより良い明日を求めているのではなく、自分の明日を捧げているのです。彼女の行動は投資などではなく犠牲そのものです。このやもめは、最大限の犠牲を通して神様への最大限の愛情を表現していました。そこには偽りの心はありません。
このお話の後に、イエスは神殿崩壊の預言を弟子たちにお話ししています。このお話もやもめの献金のお話とつながっています。エルサレム神殿は、18,000人以上を動員し、BC20年から大改修を始め、AD64年に完成しました。エドム人のヘロデ王がユダヤ人の歓心を買うためにゼルバベル神殿を大改修したのです。また、ヘロデ王は自分を表すことを目的に、わざわざ地中海の島々から大理石を輸入して使用しました。ローマやギリシャ、エジプトから建築家を呼び寄せました。ユダヤ人の担当することになった西側以外の城壁が、全面金箔で覆われました。日の出の時間には、神殿自体が太陽光線そのものを見るように眩しかったと言います。しかしイエスは「その石一つでも崩されないままで残ることはない」と言いました。実際、イエスが死んだ40年後、AD70年にローマ軍によって神殿が崩壊しました。激しい飢餓と戦争で、ユダヤ人が110万人が死んだと言われています。律法学者、やもめ、神殿のお話で共通して言いたいことは、いくら外側が立派でも内側が汚れていれば、必ず滅びるということです。外側の華やかさに惑わされてはいけないという教えが一貫しています。
3。内側にこだわる人生
最も重要な事実は、神様は外側ではなく内側を見る、ということです。
“しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。”
サムエル記上 16:7 口語訳
私たちはついつい外側だけで判断してしまう傾向にありますが、それでは、神様の考えから離れてしまいます。神様は常に内側を見るお方だからです。人々は立派な見た目の律法学者やたくさんのお金を持っている金持ち、圧倒的な存在感を誇るヘロデ神殿を称賛します。しかし聖書は、いくら外側が立派でも、内側が汚れていれば、滅びは免れないことを教えています。たとえ年収が1000万円以上でも、家庭で妻や子供を無視しているなら意味がありません。たとえ毎週教会に来て礼拝を捧げても、神様の言葉に従わないのなら意味がありません。たとえ1日3時間祈ったとしても、自分の思い通りになる願いをするなら意味がないのです。神様は私たちの心の内側を全て見ているからです。私たちは外側以上に内側に注意を払う必要があるのです。
次に重要な事実は、神様は成果ではなく犠牲の大きさを見る、ということです。
“人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。”
ヨハネによる福音書 15:13 口語訳
愛には犠牲が伴うものであり、最大の犠牲は命であると、イエスは教えています。反対に、犠牲を払いたくない愛は本当の愛ではありません。本当の愛は、受け取った物の大きさではなく、与えた人の犠牲の大きさで見ることができるのです。暇な時間に会いに来る人と、忙しくても時間を作って会いに来る人とでは、どちらの愛が大きいでしょうか?私たちの信仰生活も似ています。することがなくて祈るよりも、時間がなくても祈る時間に大きな意味があります。私たちはどこに犠牲を払っているでしょうか?私たちが犠牲を払うところに私たちの心があります。私たちが神様を1番に愛するというのなら、1番の犠牲を神様に払っているはずなのです。
ですから、私たちは犠牲を払って愛し合いましょう。
“それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。”
ルカによる福音書 14:33 口語訳
イエスは、弟子の条件として、自分の財産を捨てることを教えています。自分の命を捨てること、十字架を背負うことだとも表現しています。しかし、これは比喩的表現であり、実際に今すぐ財産を捨てたり、命を捨てたり、十字架を背負いなさいと言っているのではありません。十字架刑にかかるということは、ローマに反抗していた者がローマに従順になったことを意味しています。つまり自分の十字架を負うということは、神に反抗していた者が神に従順になったことを意味しています。同様に、自分の財産を捨てなさいとは、自分の財産を神に反抗して自分のために使っていたのを、神のために使いなさい、という意味です。命の場合も同じです。犠牲を払いなさいと教えているのです。しかし、その犠牲は大きな喜びをもたらします。
結婚生活を考えれば分かりやすかも知れません。独身の時は自分のために自分の時間とお金を使いました。しかし、結婚してからは自分の時間とお金を妻のために使います。その犠牲が負担になることがあります。しかし、その犠牲は「賢者の贈り物」の夫婦のように、互いの愛情を確かめ合うことができます。神様は私たちのために最大限の犠牲を払いました。私たちは神様に最大限の犠牲を払っていますか?私たちが犠牲を払うとき、神様の愛をもっと感じることができます。犠牲を払って愛し合いましょう。
4。まとめ
このお話は、献金の心構えを教えているのではありません。神様が外側ではなく内側を見るお方であるという事実と、内側を正しく見るための見方を伝えています。私たちは外側に惑わされて滅びの道を行くのではなく、犠牲を払って愛し合い、主の道を歩みましょう。
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